美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

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家康の「家」を与えられた若きプリンス大給松平家の初代岩村藩主・松平家乗

投稿日:2021年8月27日 更新日:

徳川家では初代である「家康」「家」の字は将軍職を継いで行く者につけた。

 

徳川宗家(将軍家)の後継者のみ許された「家」の字です。
後継者でも「家」の字を使ってない徳川将軍がいます。
それは、二代・将軍秀忠、五代・将軍綱吉、八代・将軍吉宗、十五代・将軍慶喜です。

※二代将軍・秀忠を除く将軍五代・八代・十五代はいずれも正式な手順を経て”将軍後継者“の座から将軍となっていないから「家」の字がついてない。

 

 

初代徳川将軍徳川家康(元は安祥松平家の出身)
二代将軍は徳川家康の子・徳川秀忠三代将軍は徳川秀忠の子・徳川家光四代将軍は徳川家光の子・徳川家綱五代将軍徳川綱吉(館林徳川家から養子)六代将軍徳川家宣(甲府徳川家から養子)七代将軍は徳川家宣の子・徳川家継八代将軍徳川吉宗(紀州徳川家より養子)九代将軍は徳川吉宗の子・徳川家重十代将軍は徳川家重の子・徳川家治十一代将軍徳川家斉(一橋家から養子)十二代は徳川家斉の子・徳川家慶十三代は徳川家慶の子・徳川家定十四代徳川家茂(紀州徳川家から養子)十五代徳川慶喜(水戸徳川家出身で一橋家から養子)

 

 

「家」の字は徳川将軍家と大名の植村家の専売特許他家は遠慮するのが常識的で普通であった。

なぜ、家康は植村家に許したか?というと、家康の祖父・清康、父・広忠が暗殺された時、いずれもその場に居合わせた植村栄康(よしやす)【一般には氏明(うじあき)と呼ばれている)】が下手人を仕留めたため、植村栄康の子に「家」の字を与え植村家存(いえさだ)とした。

 

 

これを名誉として代々「家」の字を名乗っている。(小耳に入れておいて欲しいんですが師「湘南乃風」のメンバーSHOCK EYEこと植村家浩は直系の子孫)

 

 

は概ね漢字二文字で、家康の場合通常は「家」の字を与えて、特に相手を尊重する場合のみ「家」の字を与えている

家臣の中でも家老級の人物(徳川四天王の一人酒井忠長の長男と一段低い植村家に例外的に与えている)

 

 

徳川家でないのに「家」の字を主君・徳川家康から偏諱※1を受け家乗と名乗った武将が初代岩村城主松平家乗です。

※1.偏諱(へんき)とは、​​​​​​貴人などの二字名の中の一方の字を忌 (い) み避けること。また、その二字名の一方の字。

 

 

大給宗家の五代・松平真乗の長男・松平家乗は家康に可愛がられる

松平家乗(天正三年(1575年)〜慶長十九年(1614年)十四松平の一門衆である大給松平氏の第六代で、代々の幼名である源次郎、天正10年(1582年)父・真乗が死去したため、七歳で家督を継ぐ、天正15年(1587年)12歳で元服を迎えると、主君・徳川家康から偏諱を受け「家乗」と名乗った

 

              ▲松平家家康も元は松平元康

 

天正18年(1590年)に発生した小田原の役※2で小田原の北条氏が滅ぶと、家康は旧北条領に移封すると、松平家乗に上野国那波郡(現・群馬県伊勢崎市)に一万石の所領を主君・家康から与えた。

※2.小田原の役とは、天正18年(1590年)に、豊臣秀吉が小田原城に籠城する北条氏を征伐し、天下統一を果たした一連の戦いのことです。小田原の役は様々な別名があり、小田原合戦、小田原攻め、北条征伐、小田原の戦い、小田原の陣などと呼ばれています。

 

※上記の松平家乗をクリックして頂くと関連記事が書いてあります。

 

 

慶長元年(1596年)には官位を叙任され、慶長5年(1600年)の石田三成との関ヶ原の戦いでは家康の従って従軍し、三河国吉田城の守備を務めた。

 

 

また、関ヶ原の戦いに東軍として参加した家臣・石川康通彦坂元正が合戦翌々日に松平家乗宛に合戦の経緯した署書状を送った。(一次資料として残されています。)

 

 

戦後家乗は、慶長6年(1601年)関ヶ原の戦いの功績により家康からそれを賞されて美濃国岩村藩2万石に加増移封され、初代岩村藩城主に就任しています。

 

                                                        ▲岩村城の石垣

 

岩村領の中心である岩村城は大規模で堅固だったものの中世の山城である石垣や建物を補強し、戦の無くなった近世では必要なかったことから麓に藩主居館と藩庁を新たに造営し、城下に時を知らせる「太鼓櫓」を設け藩士だけでなく町民の便宜を図りました。

 

       ▲藩主邸跡に復元された太鼓櫓・当時の太鼓がこの奥にある歴史館に目安箱と共にあります。

 

 

城下の町割りも積極的に行い、麓の藩邸周辺を武家地街道に沿った長く伸びる町人町の基礎が築かれています。

さらに、城下には菩提寺となる久翁山龍巌寺を創建、さらに、祖父である松平親乗と父・松平真乗菩提寺である盛巌寺や縁の深い浄光寺を当地でも創建してます。

※上記の藩邸周辺をクリックいて頂くと武家地と町人町がかいてあります。

              ▲枡形地から撮影、上が本町通りです。

 

 

30歳の若さで亡くなった初代・岩村藩主松平家乗

慶長十九年(1614年)二月岩村城内で享年30歳で死去した家乗は、『大聖院殿乗誉道見』と追号され、自らが建立した菩提寺である久翁山龍巌寺の境内に葬られ大名墓地に墓碑があります。

 

 

初めは祠堂を建て仏像と位牌などを祀ったと推測されるが、経年の荒廃が激しくなってため祠堂を取り崩し現在ある墓碑「松平前泉州家乗公之墓」が後年建立されたと思われる。

 

 

なお、寛永五年(1638年)に二代岩村藩主・松平乗寿(大給七代)が浜松城に転封で龍巌寺は廃寺となり、跡地は三河伊保から入封した丹羽氏の妙仙寺となった。

 

 

龍巌寺の廃寺に際しては、松平家乗で信州の知久左衛門直政に嫁いでだ隆祟夫人が、龍巌寺塔頭某に遺命を以って庵を営ませ墓守としていたが、正保三年(1646年)に松平家乗三十三回忌の法要を営むにあたり館林六万石を領していた松平乗寿は龍巌寺塔頭某の庵を一寺とし、姉の諡号から隆祟院と名付けた。

 

 

なお、妙仙寺は元禄十五年(1702年)の丹羽氏転封で移ったが堂宇は、そのまま残ったので、信州小諸から會祖父所縁の他に入封した大給松平分家第二代松平乗紀(初め石川姓)は、父の諱名を採った小諸創建の乗政寺から本尊をはじめとした仏像を移して安置し、大給松平分家菩提寺とした。

 

 

龍厳寺は岩村町史で、松平乗寿の浜松転封により廃寺になったとされているが、寛政重修諸家譜巻第九には「のち封邑を移さるる毎に、寺をもその他に移す。」とあり。

 

 

明和元年(1704年)に大給松平十一代松平乗佑が出羽山形から三河西尾へ転封した際に、盛巌寺(西尾)「菩提所龍巌寺無住の故を以って道中位牌の守護」を命じられた。

 

 

翌明和二年(1715年)には、「龍巌寺兼帯」を命ぜられているし、西尾藩分限帳(明治二年版)にも盛巌寺の役割中に「龍巌寺無住之内兼帯」とあるので、龍巌寺も大給松平家の転封に従っていたのでないかと思われる。

 

 

松平家乗の墓(五輪塔)高野山にもあって、建てたのは台座に刻まれた文字から嫡子・松平乗寿で7回忌法要だと思われるが、なぜ高野山に建立したのかはわからない。

 

 

ただ、当時は有力者のステータスシンボルとして高野山に墓を建てるのが流行したようである。

 

 

あとがき

大給六代・松平家乗亡き後、慶長19年(1614年)家督を継いだ松平乗寿は、同年冬からの大坂の陣に出陣して功績を挙げ、城主となっていた寛永9年(1632年)岩村城の鎭護と領民の安泰繁栄を祈願して石室千体仏の経塚を建立した。

また枡形地に信仰心の深かい乗寿は祥雲寺(庚申堂)を建立した。

 

 

寛永15年(1638年)に、美濃岩村藩2万石から遠江浜松藩(出世城と言われる)に3万6000石へ加増移封された。

 

 

寛永19年(1642年)には徳川家綱付きの老中に任じられ、正保元年(1644年)2月28日には上野館林六万石に加増移封となった。

 

 

家綱が第四代将軍になると、正式に老中の一人となって政務を取り仕切った

 

 

 

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