▲加藤景廉一族の墓(沖の原五輪の塔)
- 我が故郷の岩村城の祖の加藤景廉が、頼朝より地頭を賜ったのに、承久の乱後、加藤景廉が亡くなった。
承久3年(1221年)8月3日没。
1221年に起きた承久の乱は鎌倉幕府×後鳥羽上皇との戦い。
後鳥羽上皇とは、どいう天皇だったか?
後鳥羽天皇は、1180年生まれ、1180年といえば、以仁王※1が挙兵し、ちょうど源平合戦が始まった頃です。
※1.以仁王(もちひとおう)とは、後白河天皇の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促したことで知られいる人物です。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称された。
1184年、後鳥羽天皇は4歳で天皇即位することになります。
実は、後鳥羽天皇が即位した当時、安徳天皇という別の天皇がすでに即位していました、この天皇は平清盛が強権により即位させた天皇です。
当時の天皇指名権は、天皇家の家長にあるっていうのが一般常識でした。
当時の治天の君は後白河法皇でした。
後白河法皇は安徳天皇の異母弟ある4歳の尊成親王※2を即位させることに決めた。
※2.尊成親王とは、(のちの後鳥羽上皇)高倉天皇の第4皇子で、母は坊門信隆の娘・殖子。
この即位は、太上天皇(後白河法皇)の院宣※3を受ける形で践祚※4し、その儀式は剣璽※5関係を除けば上位の例に倣って実地された。
※3.院宣とは、上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発令する文書。天皇の発する宣旨に相当する。院庁下文よりも私的な形式。
※4.践祚(せんそ)とは、天子の位を受け継ぐことであり、先帝の崩御あるいは譲位によって行われる。古くは「践祚」と書き、「践」とは位に就くこと、「祚」は天子の位を意味する。これに続いて位に就いたことを内外に明らかにすることを即位という。
※5.剣璽(けんじ)とは、第一義には、三種の神器(歴代の天皇が伝世している三種の神器)、のうちの剣と玉(璽)、すなわち、天叢雲剣と八尺瓊勾玉を併せた呼称。
しかし、第二義には、三種の神器の総称です。
※.上記の読み方:天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、八尺瓊の勾玉(やさかにのまがたま)
即位式も元暦元年(1184年)7月28日に、同様に神器のないままに実地された。
後鳥羽上皇はなぜ、鎌倉幕府を倒そうとしたか?
鎌倉幕府ができたおかげで、貴重な財源を鎌倉幕府に奪われてしまったから、それを取り戻すために倒幕をしようと計画を建てたんです。
後鳥羽上皇はいつ頃倒幕計画を立てたか
もやもやの心境で過ごしてきた後鳥羽上皇は、怒りの頂点に達していたきたのは、三代将軍・実朝の時正治2年頃から少しずつ幕府を倒す倒幕の準備を始めたと思われます。
◻️これ以外にも、周りの近臣たちを倒幕推進派で固める◻️
承久の乱勃発
承久元年(1219年)に、三代将軍・実朝が鶴岡八幡宮で、先の二代頼家の子・公暁に暗殺され、後鳥羽上皇は倒幕のきっかけとなる重大な事件が起きた訳です。
これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。
その時、我が故郷の加藤景廉(源頼朝の重臣・岩村城の祖)は、健在でした。
嫡男・遠山景朝は鎌倉幕府の家臣でした。
実朝が亡くなったので源氏将軍が絶えたので、次の将軍を誰にするか決めかねていた、その時に、将軍の最有力候補として挙がったのが、後鳥羽上皇の息子でした。
幕府は上皇の息子が第四代将軍になれば、幕臣が将軍を殺めるような真似は、しないだろうと考えて、後鳥羽上皇に言ったが拒否して、条件を出してきた。
北条義時: 「それは無理だ、逆らうなら京に軍を送り込むだけだ」
後鳥羽上皇:「武力で簡単に脅せると思ったら大間違いだ。幕府の軍隊などに屈することはない」
こうして、お互いに強硬な姿勢のまま交渉は決裂しました。
この事件をきっかけに後鳥羽上皇と鎌倉幕府を預かっている北条義時の軋轢は決定的なものとなった。
ちなみに鎌倉幕府は、妥協策として
藤原氏の藤原頼経を第四代鎌倉将軍とした。
1221年承久の乱始まる
承久3年(1221年)5月15日に、後鳥羽上皇は「北條義時追悼」の宣旨※6を全国の豪族に伝えた。
※6.宣旨(せんじ)とは、奈良・平安時代、天皇の意向を下達すること。また、朝廷の命令を下に伝えること。
これは、鎌倉幕府への宣戦布告をしたことになります。
この事を知った鎌倉幕府や東国武士たちは激しく動揺した。
なぜなら、宣旨を受けたターゲット(今回は鎌倉幕府)の勝てた事例がほとんどなかった。
鎌倉幕府の御家人は:ターゲットにされたら負ける勝てるわけがないと嘆いた。
北条政子の神演説で東国武士を奮い立たせた
鎌倉幕府に尼将軍・北条政子あり。
動揺する御家人らの心を幕府に繋ぎ止めるため、一同を集めて『神演説』を行った。
みな心を一つにしてよく聞きなさい、これが最後の言葉である。
安達景盛に代読させ源頼朝の恩顧を訴えた。
『吾妻鏡』によると
「故・右大将軍(頼朝)が朝敵を征伐し、鎌倉に幕府を創って以来、官位といい、棒録※7といい、その恩は、“山よりも高く、海よりも深いもの”
感謝の気持ちは浅くないはず。
※7.棒録とは、棒と祿。給与。扶持。
しかしながら、反逆者が事実でない事を訴え、道理からはずれた院旨が発せられた。
名声を大切にしようと思うものは、足利秀康(藤原)・三浦胤義を討ち取り、源氏三代の将軍(頼朝・頼家・実朝)が遺したものを最後まで守りなさい。
ただし、後鳥羽上皇のもとに参ろう思う者は、今すぐ申し出なさい」
◻️この言葉に多くの御家人は胸を打たれ、幕府と共に戦うことを心に誓いました。
平安時代というのは、武士にとっては朝廷の番犬にすぎず、いくら頑張ってもす出世は不可能、重税に苦しみ、貴族らの理不尽に耐えるのみ、そこに希望を与えてくれたのが、源頼朝の鎌倉幕府だったことを北条政子の神演説で再確認した御家人たちだった。
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承久の乱の経過
政子の演説で、一致団結した幕府軍は京へ進軍した。
1221年5月22日に幕府軍が三方向に別れて出兵して行った。
行軍中に味方も増え、総勢19万騎に達したと言われます。
余裕の構えだった朝廷側は、この話を聞いて顔面蒼白になり、勝利を確信してたから兵の準備をしておらす、対応が後手にまわった。
幕府軍の連戦連勝で朝廷側は最終防衛ラインである宇治川も突破され瞬く間に終戦に向かっていった。
その時の朝廷側の大将が、一条信能で宇治川芋洗方面の防御して出陣していた、しかし、幕府軍と戦い敗れ捕らえられた。
※上記の、一条信能をクリックして頂くと別ブログがあります。
幕府軍として出陣していた岩村城主の遠山景朝に伴われて、鎌倉へ輸送される途中、幕命によって岩村町内の相原ら処刑された、享年32歳だった。
村人は、哀れみ処刑地に小祠を建てて霊を弔い若宮社ち称して供養してきた。
▲巌邨神社
明治13年(1880年)6月に明治天皇が中山道御巡幸の折、岩村へ勅使を派遣され祭祀料を賜った。
明治14年(1881年)3月に社号改称の沙汰があって、今は巌邨神社と称します。
さらに、昭和3年(1928年)11月に正三位増位の恩命があった。