頼朝は父・義朝と平治の乱で平氏と戦い負戦で捕えられて、伊豆蛭ヶ小島に流される。
この地は、北条氏の支配領域だった。
最初から同地に居住したかは定かではない。
そこには、北条時政の娘・北条政子がいた。
もう一人監視役を任された伊東祐親には娘・八重姫がいた。
元々頼朝は、京の人間で生まれもいいし「御曹司」だったからあっちの女、こっちの女に手を出していた。
京では当然のことのように振る舞っていた、頼朝は当時にしては長身で容姿は、京の神護寺にある有名な肖像画には美形かつ高身長、さらに皇室の血を引く源氏の棟梁、モテないはずがありません。
流人頼朝と八重姫の密会
そんな源氏の貴公子が島流しになって伊豆の蛭ヶ小島(現・静岡県伊豆の国市四日町)に来たから、さぁ〜それは大変だったと思う。
そんな折、八重姫の父・伊東祐親が大番役※1で上洛してる間に、娘の八重姫がまさかの流人と通じあって、二人の間に子・千鶴丸を儲けるまでの仲になっていようとは、京から帰ってくるまで全く知らなかった。
※1.大番役とは、京都の皇居や院などの警備にあたる職歴をいう。地方の武士にとっては負担が大きく、その期間は平安時代には3年勤務であった。
頼朝が幕府を作ってからは半年勤務に短縮し、公家に対して武家の優位が確定する鎌倉時代中期になると3ヶ月勤務と短縮された。
が 平安時代末期においては、地方の武士が中央の公家と結び付きを持つ機会であり、大番役を通じて官位を手にする事ができた。
つまり自らが在地している国の介・権介・のちに任命してもらうことで在庁官人としての地位を手にし、支配権を朝廷の権威に裏打ちもらうという利点もあった。
また、歌などの都の文化を吸収し、地元に持ち帰った。
逆に短所や不安材料として、こうした大番役は惣領に限らず、その子が請け負う事もあったが、子が京にいる間に惣領が亡くなった場合、地元で弟・叔父などが勝手に惣領の地位を収奪してしまう、とした事態が起きる事もあった(例:上総広常)。
地元で騒乱があっても迅速な対応が出来かねるという事もあった(例:畠山重忠)。
京から帰宅して、これを知った祐親は激怒し、安元元年(1175年)9月、平家の怒りを恐れて千鶴丸を殺すように命じて松川に沈めて殺害、当時3歳だった。
さらに頼朝自身の殺害を図ったが、頼朝の乳母・比企尼の3女を妻としていた次男の伊東祐清が頼朝に知らせた。
夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得たという。
北条時政の最初の正室(この時点では亡くなっている)は、伊東祐親の娘(八重姫の姉)であった。
哀れ千鶴丸の悲劇
千鶴丸にとって祖父の伊東祐親は、伊豆の国の住人で累代の源氏の家臣でしたが、平家からも格別の恩を受けていて、伊豆国におけるその権勢は他に類をみないかった。
祐親には娘が4人いて、一人は北条時政の妻、一人は相模国の住人三浦義明の息子・三浦義連(よしつら)の妻、今一人も相模国の住人土肥次郎実平の息子・土肥遠平の妻になっていた。
まだ結婚してなかった八重姫の所に頼朝はひそかに通っていたが男の子が生まれた。
頼朝は殊の外悦んで寵愛し、名を千鶴丸、三歳の春、幼い者たちを沢山引き連れて、乳母に懐(いだ)かれて庭の植え込みの花を積んで遊んでいたのを、祐親が京から大番役の任を終えて帰ってきた折に見つけて
「この幼い者は誰である」
と尋ねたけれども、乳母は答えず逃げていった。
▲千鶴丸(イメージ)
祐親は家の者に尋ねたところ、妻が
「あれは、あなた様が上洛なさっている間に、大切に育てた八重が高貴な殿方との間に儲けた子です」
と答えると、
祐親は怒って
「相手は誰だ」と詰問した。
妻は「頼朝殿」と答えた。
祐親は「商人や修験僧などを夫に下ならば、むしろそれでも良かろう。しかし、源氏の流人を婿にとって、平家のお咎めがあった時には、どのように申し開きをすればよかろうか」といって、
雑色※23人と郎等※32人に仰せつけて、その子を呼び出して、
「伊豆の松川の奥、白滝の底に簀巻きにして沈めよ」といったので、三歳になった千鶴丸でも、何をいってるのかわかるらしく、泣き惑って逃げたが捕えられ郎等に引き渡された。
※2 .雑色とは、雑務を努める従者。
※3.郎等とは、従者のこと。
千鶴丸の容姿や佇まいが美しく、やはり他には比類ない様子であった。
雑色、郎等達はどのように千鶴まる殺したらいいか見当がつかず、悲嘆に暮れていたけれども、強いて拒めば主人(祐親)に「心中思うところがあるのか」といって殺されると思って、泣く泣く抱き抱えて、かの場所へ連れて行って水の中に沈めたのは、本当に悲しい事だった。
娘を呼び戻して、当国の住人、江間小四郎を婿に取ったということだ。
頼朝は、この一件をお聞きになって、怒る気持ちも深くて祐親を討とうと思う気持ちが何度も沸き起こった。
頼朝は「今までずっと心に懸けていた大事をまっとうせずして、今私情に走り、その仇を報いたいとして身を滅ぼし、命を失うことは愚かなことだ」と思い直して過ごしたという。
その後の八重姫の真相は
生き延びた説と入水した説があります。
一つは上記で書いたように、江間小四郎と結婚したという。
▲八重姫(イメージ)
もう一つは、伊豆の国市の「眞珠院」には、八重姫が頼朝との悲恋に身をさかれ、治承四年(1180年)、狩野川の支流の「真珠ヶ淵」に入水したという話が伝わっています。
それによれば、北条の館を侍女を連れて訪れた八重姫は、そこで頼朝と政子が結ばれたことを聞かされ、帰り道に重い足を引きずりながら真珠ヶ淵まで辿り着いて、涙にくれながら「今は世に生きるなんの望みのなし。せめて我が身を犠牲にして、将来共末長く不幸な女人達の守護神となりましょう」と言い残して身を投げたという。
このことを侍女たちから聞いた里人達は、のちに八重姫を万願寺に葬り、女人の守護神として里人たちのの信仰を集めてきたが、明治初期に廃寺となったので、供養塔が眞珠院に移され、現在では、眞珠院で毎年4月の第二日曜に盛大な供養祭が行われていますとのこと。