美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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信長の叔母おつやの方が武田の秋山虎繁と4度目の結婚した時の年齢は

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 時期は不明だが、信長は叔母・おつやの方を岩村城主・遠山景任の元に嫁がせた、3度目の政略結婚で縁戚関係を結ぶなど、複数の勢力に属する関係を築いていた。

 

 

一方武田信玄は、弘治元年(1555年)に東美濃に侵攻して岩村城を包囲、景任の父・遠山景前は降伏して武田氏に臣従した。

 

 

2年後の弘治2年(1557年)7月13日に父・景前が死去、嫡男であった景任が跡を継いだが、まだ若かったため遠山七頭の中には従わぬ者が多くいて後継者争いが起こった。

 

 

そのため武田氏が岩村城に派兵して調停し、景任が武田氏の後ろ盾によって岩村城主となった。

 

 

永禄年間になると、遠山氏武田氏織田氏に両属して、その外交関係(甲尾同盟)を仲介する存在となった。

 

 

永禄3年(1560年)桶狭間の戦いには、景任の弟・遠山直廉が参戦している一方で、永禄7年(1564年)頃、城主・遠山景任は信玄を主従としての書状のやりとりをしている。

 

 

永禄8年(1565年)に武田軍が金山城の森可成と米田城に肥田忠政を攻撃した後、信長遠山直廉の娘を養女として武田信玄の庶子・武田勝頼の室(妻)とする縁組をまとめ、遠山氏を介した織田・武田両家の連携の一環であった。

 

 

永禄11年(1568年)苗木城主の遠山直廉が、武田信玄の駿河侵攻に動員され、翌12年(1569年)には、遠山氏と友好関係にあった、飛騨の三木自綱を攻めるように信玄に命じられて、大威徳寺の戦いにおいて矢傷を受けた遠山直廉は後に戦傷死した。

 

 

これにより岩村以外の遠山一族の多くは武田氏からの圧力に反発して、織田氏や徳川氏と連携した。

 

 

元亀3年(1572年)8月14日、遠山景任が病死して岩村遠山氏の血統が断絶すると、信長は東美濃の支配権を奪う好機として、岐阜城留守居の河尻慎吉や兄・織田信広(信長の兄だけど庶子)を岩村城に派遣して占領すると、亡くなった景任の養嗣子として我が子御坊丸を送り込み、叔母・おつやの方を後見人とした、いわゆる女城主である。

 

 

 

武田氏ついに岩村城を取る

元亀3年(1572年)10月3日、それまで諸勢力に向けて盛んに上洛することを宣伝した信玄は西上作戦を開始した。

 

 

同年12月、秋山虎繁は武田軍を率いて東美濃の遠山氏の本拠地岩村城を攻めた。

 

 

遠山氏は亡き景任生前は武田氏に臣従してたが、亡き後は信長の叔母・おつやの方になってから敵対関係になっていく、そのため武田信玄は秋山虎繁を向かわせ岩村城を包囲し岩村城を、天正元年2月、秋山虎繁は岩村城を攻撃した。

 

 

ときに岩村城は城主・遠山景任が既に歿し、未亡人修理夫人(おつやの方)は信長の5男御坊丸を守っていた。

 

 

家督を継いだ御坊丸の乳父・五十岩久助勝貞は勇猛の士であったので、幼君を守りて防戦した。

 

 

霧ヶ城の堅塁と共に容易に陥落しそうもないので、秋山虎繁は密かに計を巡らし、密使を城中に送り密かに後家を説得し、婚姻して無事に城を明け渡し、御坊丸を養子として家督を譲ることとしては如何と、おつやとしても甥・信長に援軍要請するも来ず、これでは到底最後まで支えることは不可能だと悟り、ついにこの提案を承諾した。

 

 

おつやの方は御坊丸と城兵の安全と結婚を条件に開城し、岩村遠山氏とその一族は武田氏の軍門に下った無血開城である。

 

 

しかし、秋山虎繁は、その後信玄の嫌疑を受ける事を悟り、御坊丸を甲府へ人質としてわずか7歳であったが送った。

 

 

のちに信長はこれを聞いて大いに怒ったが、その頃信玄の勢力強く、且つ信長は近畿攻略に追われていたので、無念ながらそのまま放任せざるを得なかった。

 

 

同年11月14日、岩村遠山氏滅び城は武田方になった。

 

 

 

秋山虎繁とおつやの方の結婚

秋山虎繁は武田信玄の重臣で猛将であった。

おつやの方は織田信長の叔母であり遠山景任の妻であったが、秋山虎繁の謀略で4度目の結婚で妻となった。

         ▲イメージ

 

遠山景任の歿後、信長の五男?御坊丸を養嗣子としていたが、秋山と結婚してから御坊丸は人質となって甲斐に送られてしまった。

 

 

これらの事情について武田方の記録と織田方の記録で大きな喰い違いがある。

 

 

敵味方であれば当然見方が違う、そのために真相がわかりにくいので、文献を辿りつつ真相を検討してみよう。

 

 

武田方の2人の結構記録

西(天正元年)の2月下旬に信長叔母子美濃国岩村殿(遠山景任)後家を、信州伊那秋山伯耆内方に織田掃部肝煎を以て祝言あり。但し是は信長そこ意は存ぜられ、うはげはしらざる様なれども、此方家老衆各出頭衆内々申上、信玄公御在知也。其後織田掃部、信長子息御坊を甲斐へ同道仕り信玄公へ進上申候。此人質故先ず信長とは御無事の様なり、御坊の乳父には五十君久助と申者きたる。宿は春芳珪琳番にかわり宿仕り候。

             ↑
上の文によると修理夫人(おつやの方)秋山虎繁の婚儀は、織田方よりの申出の如く書いてある。

 

 

これは勿論武田方の記録であって、織田方の承知した事ではない。

それどころか信長としてみれば遠山景任に叔母を嫁がせたり、子息を養子に与えたりしたのは、何処までも遠山氏を味方とし武田氏に当らせるつもりでいたに違いない。

 

 

それが敵将の妻となり、己れの子は人質にされたりしては嘸腹がたったであろう。

信長としては切歯扼腕したであろう。

 

 

しかし、その時の武田氏の勢力は信長でも何ともならなかった。
結局時期を待つより仕方なかった。

 

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この時の二人の年齢はどうか

巌邑府誌は、これに疑問を持って、信長の叔母とすれば信長の父・織田信秀が存命ならば66歳になる(天文18年42歳で卒)から、叔母としても50歳を下るまい。

 

 

どうしても秋山虎繁はおつやを信長の妹としなければ不合理であるというのである。

 

 

これは常識的に見れば尤もであるが、系図には明らかに叔母になっている。

             ▲信長の系図

 

秋山伯耆守は岩村殿(遠山景任)の後家を妻女に仕候。後家は織田弾忠妹、信長のため叔母なる故、云々

明らかに書いてある。

 

 

そこで年齢について調べてみると、秋山伯耆守が上村へ侵入した時、元亀元年に40歳であったから、岩村入城の天正元年は43歳になる。

 

 

信長の年齢は天正10年本能寺で亡くなった時49歳であったから、天正元年は43歳になる。

 

 

推測だがおつやの方は信長より2・3 歳年下だから結婚しても充分であった。

 

 

当時の家族制度から云えば、おつやの方は叔母なれば甥と違わない程の若年もあり得るから、この婚儀は成立しないこともない。

 

 

但し、どこ迄も叔母の場合であって、伯母※1であってはならない。
軍艦等では伯母と書いてあるから訂正すべきである。

※1.伯母とは、父母の兄弟の妻、父母の姉には「伯母」、妹には「叔母」の字を用いる。

 

 

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