慶長10年(1605年)4月16日に家康は、側室・お愛の方との間に生まれた三男・秀忠に将軍職を譲り駿府に引っ込んでしまった?
せっかく天下統一を果たした家康なのに最後まで征夷大将軍をやらなかったのはなぜだろう?
駿府城に隠居を決めてこんで「大御所」として、政治を慶長12年(1607年)から元和2年(1616年)死去するまでの間、実質的に駿府城(現・静岡市)が日本の政治の中心として機能していた。
では、なぜ家康は駿府を最後の「棲家」にしたのか?
100年近く続いた戦国を治めた、信長と秀吉と家康の三英傑のバトンリレーで、最後のランナーとなったのは家康。
ここまで来るには、幾多の危険、死を覚悟した戦いを乗り越えたに違いない、また、家康を慕う家臣団の助けもあった。
そして天下を取った以上家康は、血生臭い戦国大名たちを鎮めなくてはならない。
でも、まだ分からない油断はできない、江戸が襲われたら駿府から軍を派遣しなくてはならないという計画で駿府を選んだに違いない。
モンゴルの諺に「馬に乗って勝つのはやさしい。しかし、馬から降りて治めるのは難しい」とある。
日本でも同じだ。
戦乱の世から安定した社会に移行するのは至難の業であるが、家康は一計をめぐらした。
戦国大名たちを「流域」に封じ込めたのだ。
流域は尾根で囲まれていて、降った雨が集まる土地である。
流域に封じられた各大名たちが守ることは、尾根を越えないことであった。
尾根を越えて領土の覇権を露わにしなければ、流域内で河川改修を行い、開墾や干拓行い、豊かになることできた。
流域に封じ込められた大名達は、安心して流域内で権力を確立した。
日本を安定させた家康は、将軍職を息子に譲り、江戸から駿府に移った。
では、なぜ、人が行き交う東海道筋の無防備と思われる駿府を選んだか?
それは、流域の地形を利用した治世者であり、やはり流域の地形を徹底的に利用したかったのだ。
徳川を叩くために反乱軍が押し寄せた時を想定したのである。大御所の心配してことは第15代・徳川慶喜まで続いた。
廓山がいう5の理由
廓山とは、駿府で家康に仕えて講説を行った僧、のちに増上寺13世になった、廓山が記した『供奉記』がある。
それによると
1.幼少時代を駿府で過ごした地だから
2.避寒の地で老後にピッタリだったから
3.駿河米の美味しさが天下一だから
4.駿府は要害の地だから
5.大名や使節が拝謁に便利だから
竹村公太郎氏が『日本史の謎は地形で解ける』という書を引用すると4番が近いような気がします。
心休まる土地ではなかった駿府
静岡市は駿河の国の府中、つまり駿府と呼ばれていた。
戦国時代、家康が歴史上に登場した頃、駿河を制していたのは今川義元でした。
家康は幼名・竹千代時代6歳〜19歳まで駿府で人質生活・結婚までして地理的には熟知していた。
今川義元が信長に討たれて以来、駿府は武田氏。徳川氏、豊臣氏、そして再び徳川氏と戦国武将の「陣取り合戦」の最前線となっていた。
駿府の支配を中心に戦国年表
1300年の中頃、今川氏が駿府守護職となった。
1550年代には竹千代(家康)は今川氏の人質となった。
※ここに竹千代時代の記事があります。興味ある方は上記の竹千代をクリックして読んでください。
1560年に今川義元が信長によって桶狭間で討たれる。
1568年に武田氏が駿府一帯制する。
1582年に織田・徳川・北条軍が甲州に侵攻して武田氏を滅ぼす。
1585年に家康は浜松から駿府に移り駿府城の築城にかかる。
※ここに武田氏を滅ぼした高天神城の2次の戦いの記事があります。興味ある方は読んでください。
1590年には豊臣秀吉の命令で江戸に移封させられる。駿府城には豊臣の家臣・中村一氏が入る。
1600年には西軍・石田三成等と関ヶ原で戦い家康勝利する。
1603年に征夷大将軍となる。
1605年に息子・秀忠に征夷大将軍を譲る。
1607年(慶長12年)に駿府に入る。天正13年(1585年)以来約20年越しである。家康はこの駿府を「終りの棲家」とした。
1615年、大阪夏の陣で豊臣家を滅亡させる。
駿府を「終りの棲家」にした理由
家康が駿府に入った時期は、戦国時代の最終決戦の大阪の陣の8年前である。
その頃、大阪城には豊臣家が構え、西国には毛利氏・島津氏、東北には伊達氏などが厳然と勢力を誇っていた。
いくら徳川幕府の世といえ、油断できる状況ではなかった。
1605年に将軍職を秀忠に譲り、家康は大御所となって駿府に入った。駿府は三河・浜松と富士・沼津の中間に位置していた。
人通りの多い街道筋にあり、駿府は地勢的に重要だった。
戦国時代何度も領主が入れ替わったことをみても、どれだけ駿府の重要さがわかる。
駿府に決めた理由
家康は、源頼朝の模倣をした。
最も際立った模倣は朝廷の関西から離れ、関東で開府したことだった。
源頼朝と徳川家康を除いて、天下を狙った戦国武将たちは、関西に目を向けてた。
戦国の戦いは、いかに「権威」の関西を制するかの戦いでもあった。
しかし、1603年家康は関東に幕府を開いた。
なぜかというと鎌倉と駿府は瓜二つの地形であったのだ、
駿府の前面の海には、砂浜が広がって遠浅であった、背後には人が立ち入れない厳しい山々が連なっている。
規模は鎌倉より駿府のほうが大きい、まさに鎌倉の「相似形」であった。
ここに東海道五十三次の浮世絵がある。
浮世絵は現在でいうと記念写真のようである。
▲「東海道五十三次」由井・薩埵嶺
「東海道五十三次」の由井と岡部は、共に険しい峠越の絵でる。
東海道五十三次の16番目の由井である。
由井の薩埵峠は、まるで海にせり出しているようで、東海道の難所の難所である。
よく見ないと気がつかないが、絵の左上の断崖には旅人の後ろ姿描かれている。
この峠越えはそれほど厳しかった。
▲「東海道五十三次」岡部・宇津之山
21番目の宿の岡部である。
岡部宿へ向かう宇津の山(谷)の峠越は、昼間でも暗い場所で、追い剥ぎにあったりする所である。
この由井と岡部の位置を日本地図で確認すると、由井は静岡市の東端に、岡部は静岡市の西端に位置している。
駿府は鎌倉と同様に、前面は遠浅の海岸と背後は険しい山々で地形に防御されていた。
さらに、東と西は、海まで張り出した尾根で厳重に防御されていた。
家康が駿府を終わりの棲家に決めたのは、徳川が安定するまで、この地形で様子を見ようとしたのではないか?
それが約300年の長期にわたって徳川幕府が続いて家康も草葉の陰で喜んでいることだろう。