日本三大山城の一つの岩村城は、なにが三大山城といえるだろう?
※ここに日本三大山城の条件の記事があります。興味ある方はクリックして読んでください。
と思いつつ恵那市から第三セクターの明知線に乗って岩村町に到着、駅から東へ歩くか市の乗合バスかに乗って岩村城登城口の近くのバス「上町」停で降りて岩村歴史資料館へ行き、そこから岩村城へ登ってみよう。
※ここ歴史資料館(いろいろありますが日本に一つしかない目安箱あり)・藩主邸跡の記事があります。興味ある方は読んでください。
恵那駅は中央線は特急・快速・普通列車が走ってますが、明知線は大体1時間に一本ですから時刻表をちゃんと確認して行った方がいいですよ。
もし一本乗り遅れると1時間近く待ち時間が出来てしまいますので、喫茶店に入るもよし昼間から居酒屋はないけど、それなりの食道はあります。
僕が勧めするなら駅から歩2分弱の“あまから”という五平餅屋さんでビールでも飲んでちょっとしたつまみを貰って団子状の五平餅を食べていれば1時間はすぐなので駅までは近いから便利な場所です。
いざ日本三大山城の岩村城を目指そう
なにが三大山城かというと標高の高い所に本丸があるという事で日本三代山城に選ばれています。
徳川時代になるまで岩村城は戦いに次ぐ戦いを武田信玄対織田信長の陣取り合戦の戦国時代です。
岩村城の歴史は古く鎌倉時代に源頼朝の重臣・加藤景廉が頼朝から、この岩村の地(遠山荘)の地頭に任じられ景廉自身は頼朝の側に仕え岩村の地に来たか来ないか分かりませんが、嫡男・加藤景朝が着任して、最初駅近くの領家に館を構えていた(どこかわからないが領家に八幡社があったという)ということです。
それから、今の標高717mの城山に城を造った景朝が岩村城の始祖ということになります。
その、遠山景朝が全国的に名前が知れることになるのは、主君・北条泰時が大将で戦った承久の乱の事です。
その話は次回で書きます。
その加藤景朝が遠山荘を治めることで、名前を改名して遠山景朝になって遠山時代は戦国時代まで続いた。
遠山氏最後の城主・遠山景任は信長による信長より年下の叔母を娶り病死したため、信長の五男・御坊丸を養嗣子と迎えたとき、元亀4年/天正元年(1573年)3月6日に信玄の命で東美濃・岩村城を攻めたは、武田信玄の家臣・秋山虎繁に攻められた女城主おつやの方は岩村城を開城し、おつやの方と秋山虎繁と結婚したため岩村遠山時代は幕を閉じた。
以後、武田と織田軍によって岩村城の争奪戦が行われ、信玄が亡くなって長篠の戦いで大負けした勝頼は岩村城を攻められるも援護を送れず秋山虎繁・おつやの方夫婦は白旗あげて織田信忠に和議を申し出て開城するも信長は許さず長良川にて磔処刑した。
※ここに秋山虎繁とおつやの方の記事があります。興味ある方は上記の長良川にて磔処刑ををクリックしてください。
岩村城は織田信長の手に落ち、家臣の河尻信吉が城主になった頃から各種の石垣を修繕したんじゃないかな〜って思って恵那市の中央図書館で資料を見てきました。
岩村城の修繕等
岩村城の見どころはなんと言っても山頂に築かれた石垣でしょう。
阿木川から農民らが運んで造った石垣、どれだけ苦労したか六段壁の石垣も最初は一っ個の石垣だったが、段々と崩れやすくなったので、河尻慎吉その後の城主代理・各務兵庫や慶長6年(1601年)に若きプリンス大給松平家六代当主が上野那波藩から美濃国岩村藩に入封してから修繕されたのが最も古いと言われています。
※ここに岩村城の石垣に関する記事があります。古いイラストで① ② ③記事ありますので、興味ある方は順に読んでください。
しかし、現在見られる石垣の大半は江戸時代に積み直されたものだそうです。
例えば、「享保三年岩村城絵図」は享保三年(1718年)の大地震※1によって崩壊した石垣の修理について幕府の提出した絵図であるが、ここでは四十四ヶ所にわたって石垣が崩壊したことが示されています。
※1.享保の大地震とは、過去約 1600 年間の有史に記録された被害地震の内,長野県南部に発生した被害地震は極めて少ない。
広範囲に被害をもたらした地震は、1718 年に飯田市南信濃を震源とする遠山地震のみである。
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長野県内に発生した過去約 1600 年間の被害地震の 内,長野県南部に発生した地震は極めて少なく、亨保3年(1718年)に飯田市南信濃和田で発生した遠山地震のみである (気象庁精密地震室,2013年)。
遠山地震の震央に一番近 い被害地震は,諏訪市で亨保10年(1725年)に発生した地震で, 高遠城で石垣が壊れた程度の被害が記録されているだ けである(新編日本の活断層,1991年)。
遠山地震は,享保3年7月26日(1718年8月22日)午後2時過ぎに発生したマグニチュード7.0(宇佐美, 2003年)の地震である。
この地震は,中央構造線沿いで 発生したと考えられている(坂本,1977年, 1982年)。
地震の震央は和田の平坦地の南よりであるとされている (新編日本の活断層,1991年)。
この地震は,震央のある 飯田市南信濃和田で地形の変形や変動が語り継がれて いる(市村,1933年)。
また,新編日本被害地震総覧(宇佐美,2003年)には長野県内だけでなく近隣の岐阜県, 愛知県,静岡県にも被害が及んだことが略記されてい る。
▲ネットより
しかし,飯田市と周辺の下伊那の町村に住む人々 の多くは遠山地震の被害は飯田市南信濃周辺に限定さ れたものだと受け止められている。
そこで,実際にど のような被害がどの場所で発生したのかということを 突き止めるために,各種文献を探し出し,その記述を元に現地を調査して被害の実体を把握しようとした。
今から 295 年前に発生した地震の記録がどの程度残さ れているかが焦点である。.
ネットより、遠山地震(1718 年)の災害調査
このように江戸時代を通じて相当多くの石垣が積み直されたていたことが知られています。
江戸時代中期以降に積み直された石垣は長方形の石材を横目地が通るように積まれており、間知積※1みと呼ばれる技法です。
※1.間知積(けんちつみ)とは、大小二つの面つらをもった四角錐状の石材。石垣などに、広いほうの面を外側に連ねて用いる。
岩村城跡の石垣の中でも圧巻は本丸の北東に積まれた六段からなる六段壁です。
▲雛壇段になった六段壁
雛壇状に築かれた石垣は長方形の石材をを交互に組み合わせた落し積み技法で、江戸時代後半に築かれと考えられます。
側面から観察すると、実は先行して築かれた最上段の石垣が一気に立ち上げられ、その後、前面に低い石垣を五段にわたって積み上げられていたことがわかります。
こうした構造より、最初に築いた高石垣に崩落の危機が生じたため、その前面を抑えるように雛壇状に石垣を積み上げて補強したものと考えられます。