美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

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川中島の戦い=八幡原の戦いで武田信玄・上杉謙信のそれぞれの戦術

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そもそも、武田晴信=信玄長尾景虎=謙信との間で川中島の戦いはどうして始まったのか?

 

 

天文22年(1553年)に武田信玄が北信濃に出兵した事により始まった戦いです。

 

 

何故、武田晴信は信濃へ出兵したかというと、川中島は、長野盆地へ流れる犀川千曲川と合流する地点から広がる地域で、交通の要所として戦略上の価値が高かった場所で、武田晴信は領土拡大を目的として、この地を支配したいと考えてた。

 

長尾景虎は自分の本城である春日山城の近くであることから許せなかった。
一般的に川中島の戦いは、武田信玄と言われていますが、この戦いの時は、まだ武田晴信の名前の時に始まったんです。

 

 

武田晴信=武田信玄の生誕は、大永元年11月3日(1521年12月1日)32歳で、まだ、武田晴信という名で活躍しています。

 

 

武田信玄になったのは、永禄2年(1559年)、一方の上杉謙信は、この時23歳、名前を変えたのは、元亀元年(1570年)41歳の時です。

 

 

信玄という名で戦ったのは、永禄4年(1561年)の第4次の八幡原の戦いのはずです。

 

 

 

この時すでに桶狭間の戦いで、織田信長は今川義元を破っています。

永禄3年(1560年)5月19日(1560年6月12日)に織田信長が今川義元に勝利。

 

 

第五次の川中島の戦いの前年、永禄6年(1563年)には、この時の年齢は、織田信長(29歳)は徳川家康(20歳)と婚姻政策による同盟関係を強化している。

 

 

戦国最強の武将たる武田信玄と上杉謙信は、第一次の合戦から第五次の戦いまで足掛け12年間睨み合いを続けたことになります。

 

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第4次、八幡原の戦い=川中島の戦い

天文22年(1553年)に始まった川中島の戦いから永禄7年(1564年)の塩崎の対陣まで、足掛け12年、戦国最強と謳われた武田騎馬隊を率いる武田晴信と軍神、越後の虎と呼ばれた戦の天才こと長尾景虎の戦いです。

 

 

第1次は天文22年(1553年)の布施の戦い・第2次は弘治元年(1555年)の犀川の戦い・第3次は弘治3年(1557年)上野原の戦い・第4次は永禄4年(1561年)八幡原の戦い・第5次は永禄7年(1564年)の塩崎の対陣の計5回にわたって戦われました。

 

 

 

信玄と景虎の直接対決

最大の激戦となったのが、永禄4年(1561年)の八幡原の戦い、千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である「川中島(現・長野県中野市南郊)」の八幡原史跡公園周辺が主戦場だったと推定されています。

 

 

信玄と謙信の領国は、信玄が甲斐国(山梨県)、謙信が越後国(新潟県)で、両者にとって川中島は越後と信濃を結ぶ交通の要所であり肥大な土地でした。

 

 

謙信にとっては自国に繋がる要所、または自身の本城である「春日山城」目と鼻の先なので、ここまで信玄の領土が拡大すれば、いつ自分の本拠地・越後に攻め込まれてもおかしくありません。

 

 

領土維持のために良好な関係にある小豪族たちに治めてもらいたいと考えていた。

 

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一方で信玄にとっては自国の甲斐国が豊かな国とは言えないため、肥沃※1な土地を求め領土拡大をせざるを得ない状況であり、この地域の小豪族勢力と戦っていました。

※1.肥沃(ひよく)とは、地味が肥え、作物がよくできること。

 

 

信玄に敗れた小豪族たちが景虎に助けを求めたのが「義」に厚い謙信であったのです。

 

 

実は、この川中島の戦いと称される戦いは「戦国史上最も謎に満ちた戦い」と言われています。

 

 

非常に知名度の高い戦いにもかかわらず、その実態がほとんど分かっていないのが現実です。

 

 

第4次の八幡原の戦いでは、両雄が直接対決をしたと言われていますが、総大勝が自ら敵陣に乗り込んで行くようなことはありえないことです。

 

 

この八幡原の戦いが起こる前提として幾つかの要因があります。

当時の謙信は、将軍・足利義輝から上洛を即されるほど、無敵を誇る「軍神」、「越後の虎」の異名の名は室町幕府の勢力回復を願う将軍のいる中央・京都まで轟渡っていました。

 

 

また関東に勢力を伸ばす北条氏康に敗れ、越後に追いやられいた関東管領・上杉憲政※2らによって上杉氏の家督と関東管領職を受け継儀、任命されてこの頃から関東へ出兵しています。

※2.上杉憲政とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての上野の国の大名で、山内上杉家の15代当主でした。景虎を養子に迎え家督と関東管領職を譲っている。

景虎は、越後守護・上杉家に仕える長尾家出身で、父は越後守護代・長尾為景、母は越後栖吉城主・長尾房影の娘、長尾景虎として勢力を拡大していた折に、上杉憲政から長尾景虎の元に逃げ込んで来たのです。

景虎は、北条氏や武田氏と対立していた主家である関東管領の上杉家を助けた功績によって上杉憲政の養子となります。

 

 

その出兵で景虎が居ない状況を見逃す武田信玄ではなく、北信濃に海津城を築城し、そこを拠点に勢力拡大を着々と図って居ました。

 

 

信玄の方も景虎と戦う為に武田・今川・北条の三国同盟(甲相駿同盟)を結び、後顧の憂い※3

※3.後顧の憂い(こうこのうれい)とは、心残りになる要素がない様を意味する表現です。「後顧」は後を振り返ること、「憂」は心配・不安を意味し、後になって振り返るような心配の意があります。

 

 

永禄3年(1560年)に若干26歳の織田信長が今川義元に勝利し、甲相駿同盟に小さな亀裂が生まれてしまいました。

 

 

その亀裂によって同盟のパワーバランスが弱まり、そこに景虎が北条を討つ為に兵と共に向かい関東の多くの豪族を味方につけ10万もの軍勢を北条の本拠地・小田原城を包囲しました。

 

 

結果としては、小田原城は籠城の末持こたえられ景虎は兵を連れて越後に戻っていきます。

 

 

ただ、景虎は越後に戻った最大の理由は信玄の北信濃への侵攻でした。
のらりくらりと逃げていた信玄に対して景虎は直接対決をせざるを得ない状況を作り出した。

 

 

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信玄「戦わずして勝つ」という事を目指して戦いの前に様々な調略を行うのを得意としていましたが、この時は逆に景虎が調略を行っています。

 

 

このことは、『甲陽軍艦』に永禄3年(1560年)11月武田氏一族の「勝沼五郎」が景虎の調略に応じて謀反を起こし信玄に成敗されています。

 

 

この勝沼五郎とは信玄の父・武田信虎の弟である勝沼信友の子・信元(信玄にとっては従弟にあたる)人物です。

 

 

永禄4年(1561年)9月、軍師・山本勘助の提案で兵を2手に分けて、信玄率いる本隊8,000は、八幡原に鶴翼の陣で布陣し、高坂昌信、馬場信房が率いる本隊よりも規模の大きな別働隊12,000を妻女山へ向かいます。

 

 

山にいる上杉軍を突いて平野に追い込み、そこを待伏せて勝つといういう作戦です。

 

 

この作戦は木を突いて驚いて飛び出した虫を食べる啄木鳥に似てることから啄木鳥戦法と名付けられました。

 

 

ところが、海津城からの炊煙の量が増えていることから、景虎は武田軍の作戦を察知し、一切の物音を立てないように兵に命じ、夜間に妻女山を降り密かに八幡原に布陣しました。

 

 

翌朝、深い霧が晴れて目の前の景虎が現たとき、信玄は愕然とします。

そこへ上杉軍の攻撃が始まり出し抜かれた形の武田軍は劣勢となり、信玄の弟・武田信繁、軍師・山本勘助などなだたる武将が討ち死にする結果となりました。

 

 

武田軍の別動隊は攻め込んだ妻女山がもぬけの殻であることに気づき、慌てて八幡原に向かいます。

 

 

それまで優勢であった上杉軍は逆に形成不利に陥ります。

両側から武田軍に攻められる形となり、乱戦となった結果、総大将・景虎自ら本陣へ突入します。

 

 

武田軍の別動隊は攻め込んだ妻女山がもぬけの殻であるのに気づき、慌てて八幡原に向かいます。

 

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それまで優勢であった上杉軍は逆に形成不利に陥ります。両側から武田軍に攻められる形となり、乱戦となった結果、総大将・謙信自ら信玄本陣へ突入します。

 

 

ここで床几に座る武田信玄に長尾景虎自ら切りかかり、信玄はこれを軍配で受け止めますが、肩を負傷します。

 

 

家臣が景虎の馬を刺して信玄は助かったというのが、2人の一騎打ちの有名なシーンになります。

 

 

『甲陽軍鑑』には前半は景虎の勝ち、後半は武田の勝ちと書かれています。
合戦後には両軍ともに勝利を主張していますが、明確な勝敗はついていません。

 

 

上記の内容は『甲陽軍鑑』によるもので、諸説があり啄木鳥戦法などなく、景虎も妻女山に布陣しておらず、両軍とも霧の中で意図せず遭遇して衝突した結果だったという説があります。

 

 

常識として死傷者8,000人にも及び前にどちらも撤退しなかったのは、濃霧で大混戦となり、いたずらに死傷者を増やしたためではないかと考えられるからです。

 

 

八幡原の戦いの後も景虎が関東へ攻め入るたびに信玄は北信濃へ侵攻します。

 

 

しかし第5次・塩崎の対陣と呼ばれるように合戦は無く対陣で終わっています。

 

 

これ以降は信玄は今川義元亡き後の東海道を攻め、謙信=景虎は関東に注力し北信濃での勢力争いは終止符が打たれる形となりました。 

 

 

しかし、12年に及ぶ川中島の戦いは決着がつかないまま終わり、比類なき名将同士の戦いであり、歴史に残る名勝負と言えますが、武田・上杉双方にとっては痛恨の戦いだったと言えます。

 

 

信玄と謙信という2人の最強の武将が長い戦いを信濃で繰り広げている間に、西では信長が台頭し、天下統一へ駒を進めていきました。

 

 

もしも信玄と謙信が同盟を結んで信長に対抗していたら、あるいは歴史は大きく変わっていたかもしれません。

 

 

もしくは信玄か謙信、どちらかがこの戦いに勝っていても、信長にとっては大きな脅威となったであろうと言われています。

 

 

数年後には信玄も謙信も上洛を目指しながら志半ばで亡くなってしまったのは、信長や家康にとっては運が良かったと言えます。

 

 

勝負はつかなかったものの、川中島の戦いは戦国史を語る上で、非常に重要な戦いだったと思います。

 

 

武田、上杉双方にとっても後の歴史の流れをみると重大な戦いであり、信玄の弟・信繁と軍師の山本勘助の討ち死には武田家にとっては耐え難い損失であったように思えますね。

 

 

 

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