岩村城が、なぜ「日本三大山城」に選ばれたのか?
それは標高717mに築かれた山城だからです。
日本三大山城の条件として、株式会社 新人物往来社※1「日本城郭大系」※2の中に記述があり、三大山城は「美濃岩村城」「備中松山城」「大和高取城」を指すとありました。
※1.株式会社新人物往来社とは、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社。
平成20年(2005年)11月26日に中経出版の100%出資による新人物往来社(新社)が新人物往来社(旧社)から出版事業の営業権を取得、その後、平成21年(2009年)4月7日に中経が角川グループホールディングスの子会社となたことにより、新人物往来社も角川グループの一つとなった。
さらに平成25年(2013年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。
※2.日本城郭大系とは、新人物往来社が1980年に刊行した城郭研究本。監修は児玉幸多、坪井清足、村田修三。全18巻(他に別巻2冊があり、全20巻、月報付き)で各巻が県別に集約されています。
選ばれた理由としては
●美濃岩村城(現・恵那市岩村町)は、日本一標高の高い所にある山城でで選ばれています。
●備中松山城(現・岡山県高梁市)は、天守閣が現存する唯一の山城で選ばれていますす。
●大和高取城(現・奈良県高取市)は日本一比高(山頂と麓の高低差)の高い城で選ばれています。
ということで日本三大山城に選ばれました。
岩村町の発展は
岩村町の中世・近世※3の歴史は岩村城・岩村藩を中心として発展して行きました。
※3.中世・近世とは、中世は、古代と近世の間の時代で、日本では鎌倉時代から戦国時代(約12世紀末〜16世紀末)頃を指します。 西洋では古代末期(5世紀頃)からルネサンス(15世紀頃)までを指します。
近世とは、中世と近世の間の時代で、西洋では15〜16世紀の宗教改革や大航海時代から産業改革(18世紀後半)までを指します。日本では安土桃山時代終わり(16世紀末)から明治維新(19世紀後半)までとされます。
岩邑に城が無かった時代は、この地方には平安時代に創建された飯高山・いまはない極楽寺、山上村の部落等が転々とあったと想像します。
現在の飯高山萬勝寺の全身は満昌寺と称し、平安初期にさかのぼる天台宗の古刹※4であり、この満昌寺が臨済宗妙心寺派(現・大本山妙心寺:京都市右京区花園町妙心寺町64)萬勝寺として現在に至っています。。
※4.古刹(こさつ)とは、仏教の寺院の中でも歴史ある名刹のこと。由緒がある古い寺のこと。
この地方には、修験道の開祖である役小角※5役行者の石像が多く残っていることからも、伺えるように満昌寺は、はじめは修験道の寺として開基されました。
※5.役小角(えんのおづぬ)とは、西暦634年〜706年頃は、飛鳥時代の日本の呪術者で、山岳信仰を基盤とする日本独自の宗教である修験道の開祖とされています。
葛城山での修行や神通力、鬼神を従えるなど数々の伝説が伝わり、役行者、役優姿塞、神変大菩薩などとも呼ばれています。
▲山伏(修験者)イメージ
▲ほら貝
修験には、超自然的な霊力を得るために山野に篭って修行することで、修行者はいわゆる山伏として知られています。
修験道が平安時代に入って真言、天台の二宗と結びつき大きく成長したことから、満昌寺は天台僧の寺院として栄え一般民衆と結びついたのでしょう。
自伝によれば、満昌寺の開祖は慈覚大師※6(円仁794年〜864年)といわれています。
本尊千手観世音菩薩は慈覚大師の三礼一刀の御作でした。
▲本尊千手観世音菩薩像
▲慈覚大師(円仁)
▲慈覚大師像
※6.慈覚大師は、比叡山延暦寺の三代座主。平安時代の僧で円仁の別称です。
「慈覚大師」の読み方は「じかくだいし」と読み、この大師号は、平安時代の僧である円仁(えんにん)の別称です。
慈覚大師は比叡山延暦寺の三代座主で伝教大師(最澄)の開いた基礎を固めて、全国に天台の教団を拡大していった天台創立、当時の高僧です。
その教化(布教活動)は京都にとどまらず、故郷の下野はもとより陸奥(青森)、出羽(秋田)にまで及んだといいます。。
度々東国に下っていったようで、当時の東山道は御坂越の難所を控えていたため、その脇道として山岡から上矢作を経ての道を利用しました。
円仁がその途中の飯高へ教化(布教活動)に訪れたのは、おん歳60代半ば頃(858年)だったでしょうか。
平安時代の片鱗を全く残さない萬勝寺創建当時の祈祷が行われ、近郷の信仰を集めています。
極楽寺と岩邑山上村
極楽寺は現在残っていませんけど極楽寺の跡が発掘されました。
と山上村の部落。
※.上記の極楽寺をクリックすると詳しい記事があります。興味ある方は読んでください。
※.上記の山上村をクリックしてもらうと詳しい記事があります。
という風に岩村は古い町です。
岩村城登城
お城は岩村町の東方に城山があり、そこに岩村城が加藤景廉の嫡男・遠山景朝が築城します。
※.上記の加藤景廉をクリックして頂くと詳しい記事があります。興味ある方は読んでください。
恵那から電車でくる方は、明知線「岩村」駅で降りて真っ直ぐ前を見ると見えるのが城山です。
行くには城下町を通って歩くと約25分ぐらいかかりますが、駅前からコミニティーバスが走っているので(但し、運行している時と運行してない時があります注意してください)を使って上町停で下車すると登城口までは近いです。
まずは、岩村歴史資料館(引っ越す可能性があります注意)のある旧岩村藩主邸跡に行きましょう。
登って行くと左手に下田歌子の碑があり、右には下田歌子の勉強所がありますので見学をしたい人はしてください。
それを登って一の門まで行く間に、藤坂があります。
藤坂の胸を突く急竣は岩村城の要害の一つで山城の特殊性を味あわせてくれます。
初門から左側の谷は人工が加えられており塀の役を果たしています。
右側に点在する巨木の切り株は、太平洋戦争時に船を造るため伐採された切り株の跡です。
余談ですが、いま話題の名古屋城を木造に切り替える準備をしています木材はこの山から伐採しています。
なんで藤坂という名が付いたかというと、岩村城創設者・加藤景廉の妻が紀州藤城村から持ってきた藤の実を植えて大木になったという伝説に因んでいます。
一の門
藤坂の終点が一の門で、正式には大手一の門といいます。
一の門は二階建となっていて、初門に続いて一の門から城下町を一望出来たが、いまは木が茂って見えないが城下町と城の西南北側の監視は24時間体制で行われていた。
右側の台地には多聞櫓の他に屋敷ががあって、ここに宿泊して勤務していたそうです。
左側にも多聞櫓があり厳重なな構えをしていました。
▲一の門を入れる▲
一の門から土岐門までを土岐坂といい、道の勾配はやや緩くなっています。
第二の門(土岐門)
▲ここに土岐門を入れる▲
この土岐門は岩村遠山軍が土岐氏を破り、その城門をここに移したという伝説があります。
この土岐門は廃城の際、岩村町飯羽間の徳祥寺へ山門として移され、いまも健在で岩村城の貴重な遺構として現存してます。
▲イラストに色をつけました。
▲第二の門(土岐門)を撮影して、そこに徳祥寺の門を撮影して合成しました。両側に塀がありました。
大手門・三重櫓・畳橋
大手門へ行くには空堀にかかる畳橋だが、現存は橋がなく空堀を歩きます。
畳橋とは、敵が来ると橋板を取り外すことからこの名が付いたと言われます。
▲ここにイラストを入れる▲
▲この畳橋のイラストは、登城すると現場に案内があってコピーしました。
大手門(二階門)の前に枡形があり、空堀に望んで三重櫓が威嚇を誇り、城下町から見ると天守のように見えるが天守ではないです。
この辺りから最も要害堅固な場所であり、絶壁に望んで美しい勾配を描く石垣も二か所に見えることが出来ます。
イラストをみて想像を膨らまして下さい。
読んでくださる皆様 まだまだ続きます