天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。
その大躍進の裏には、弟・秀長の存在がありました。
知名度に比べて実像が乏しい武将は数多いですが、2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟」の主人公・豊臣秀長もその中の一人かもしれません。
兄・秀吉は強引で情熱の男、それに対して弟・秀長は温厚で調整型の男。
この兄弟のバランスが歴史を変えていき、秀長が死ぬまで豊臣政権を支えていきました。
しかし晩年の彼は強権的になり、刀狩令・太閤検地・秀次事件、そして朝鮮出兵へと突き進んで行きます。
この暴走を止められたのは、わずか一人だけ。
温厚で理性的な弟・秀長でした。
秀吉の政策が過剰化する中で秀長がどのようにして兄・秀吉を制し、政権の安定を支えていたのかを史料と説を交えながら分かりやすく解説していきます。
秀長のブレーキ役の存在
天下人・豊臣秀吉の弟である豊臣秀長が、兄・秀吉による太閤検地に対し、公の場で異論や反対意見を述べたという信頼できる史料や逸話は、確認されていません。
むしろ、秀長は秀吉政権において内外の政務や軍事面で活躍し、領地においても太閤検地と同様の検地を推進するなど、兄の天下統一政策を補佐・推進する立場でした。
ただし、秀長は「兄・秀吉のブレーキ役だった」「秀吉を諫めることができる数少ない人物」 と評されており、秀吉の暴走を抑える調整役的な役割を担っていたとされています。
このため、非公式な場や個別の案件において、秀吉に慎重な意見を述べることはあったかもしれませんが、太閤検地という政権の根幹を成す全国的な政策自体に反対したわけではないと考えられます。
太閤検地に対しては、旧来の複雑な土地所有権(職)を否定され、領主としての地位を失う国人層や農民の一部による検地反対の一揆(肥後一揆、大崎・葛西一揆など)が各地で発生しています。
これらの物理的な抵抗はありましたが、秀長のような政権中枢にいる人物からの公的な異論は一般的ではありませんでした。
秀吉・秀長は異父兄弟か?実の兄弟か?
秀長は兄・秀吉と3歳年下の弟として、天文9年(1540年)に尾張国の中村(現・名古屋市中村区)に誕生しました。
2人の母は、仲(なか)といい尾張国の御器所に住んでいて、最初の夫・弥右衛門に嫁ぎ早く先立たれ、竹阿弥と再婚したことから、秀吉と秀長は異父兄弟と言われていますが、小生は違うと思っています。
何故なら秀吉(藤吉郎)・秀長(小一郎)と妹・朝日(家康の継室)が生まれてから3年後の天文12年(1543年)に亡くなったからです。
藤吉郎は、異父となった竹阿弥とうまく行かず家出してしまいます。
皆さん、藤吉郎(秀吉)は、最初の頃から木下藤吉郎であったとおもている方が多いと思いますが、しかし、実は「木下」という名字は、秀吉の正室・ねねの実家の苗字のもので、藤吉郎は結婚したことによって名字・木下を名乗ることが出来たわけです。
「ねね」のおかげで名字がつくようになり侍になったんです。
藤吉郎(秀吉)一家は苗字もない貧しい農民だったのです。
百姓を真面目に働いていた小一郎(秀長)に転機が訪れたのは、永禄5年(1562年)兄・藤吉郎が実家に戻ってきて、兄・藤吉郎に突然武士になって儂を支えて欲しいといわれ、当時、家を出た藤吉郎は、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで活躍して、永禄5年(1562年)頃になると部下を持ち足軽組頭になっていて、信頼のおける部下が必要となり、小一郎(秀長)を思い出し誘うために帰ってきただろうと想像します。
そして武士となった頃、信長は美濃を平定するべく、斎藤道三の孫・斎藤龍興と戦い秀吉・秀長の活躍が見えはじめ、永禄10年(1567年)の稲葉山城攻め、天正2年(1574年)の伊勢長島の一向一揆の活躍、浅井長政との姉川の戦いで浅井家の旧領を褒美に与えられた秀吉は長浜城を築城、秀長の武功として注目したいのは天空の城・武田城を落とし城代と成りました。
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中国攻めの頃、信長政権の中でも、秀吉は柴田勝家・明智光秀と肩を並べる存在に成りました。
天正10年(1582年)6月2日に、本能寺で明智光秀の謀反で自害すると、毛利輝元と調和し、6月13日山崎の戦いで明智光秀を討った後、6月27清洲城で信長の後継者と遺領を決める清洲会議が開かれ、柴田勝家は3男・織田信孝(神戸信孝)を推し、秀吉は信長の嫡男・信忠の長男・三法師(後の織田秀信)を推し、これに反対した勝家だが、池田恒興や池田長秀らが秀吉を指示したため、勝家もこれにしたがるざわ得なくなり、三法師が信長の後継者となった。
天正11年(1583年)4月、近江国伊香郡(現・長浜市)の賤ヶ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦いで秀吉が勝利しました。
なぜ秀吉は“暴走”したのか?背景を整理する
こうして秀吉は着々と天下人になって行くと、秀吉は、もともと柔軟で寛容な政治家だったあったが、天下統一後、天正16年(1588年)に全国の農民に刀狩令を発した。
刀狩令
第一条:百姓が刀や脇差・弓・槍・鉄砲などの武器を持つことを固く禁じるのと、余計な武器を持って年具を怠ったり、一揆を興したりして役人のいう事を聞かない者は罰する。
第二条:取り上げた武器は、今造っている方広寺大仏(京の大仏)の釘や鎹にする、そうすれば、百姓は、あの世まで救われる。
第三条:百姓は農具だけ持って耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮らせ、百姓を愛するから武器を取り上げるのだから、ありがたく思って耕作に励め。
という秀吉に都合のいい条例を出した。
この治安維持を名目とした政策でしたが、実際には農民や寺社の間に不安が広がり、各地で反発が高まっていった。
特に、農民が生活のために所有していた農具や、寺社が儀式で使う武具まで没収されかねない状況は「一揆が再び起こるのでは」という緊張を生み出していた。
こうした危険な空気をいち早く察したのが、弟・秀長だったのです。
秀長は、温厚篤実な人柄で知られ、補佐役として豊臣政権の安定に大きく貢献「過度な厳罰を伴う刀狩は混乱招く」として兄・秀吉に対して処罰の暖和を強く進言、寺社には丁寧な説明を行い、農民には、「罰ではなく治安安定のため」という名目に言い換え少しでも不安を鎮めていきました。
結果として、刀狩令は全国的な大反乱につながることなく実施され、「一気に政策を勧めようとする秀吉」と「現場の声を聞き衝突を避ける秀長」という絶妙なバランスで実行していきました。
太閤検地でのトラブル緩和
太閤検地は土地の価値を統一する大改革で全国に混乱が発生しました。
太閤検地とは、秀吉が行った全国規模の土地調査で、天正10年(1582年)から始まり、田畑の面積や収穫高を測るための全国統一基準(「京枡」※1の使用、土地の等級付けなど)を設け、土地の生産性を「石高」で示すようにしました。
※1.京枡とは、中世末期から昭和末期まで公的な枡として使われていた標準的な枡の様式です。秀吉が全国の枡を京都の商業枡に統一したことに始まります。
これにより、奈良時代(743年)から続いた荘園「墾田永年私財法」※2、開墾した土地が私有地になったのが始まりです。
※2.墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)とは、743年に聖武天皇が制定した法律です。これは、新しく開墾した土地の私有を永久に認めるというもので、それ以前の「三世一身法」よりも開墾を促進する目的がありました。この法律により、貴族や社寺、豪族による大規模な土地の私有が進み、「荘園」が発生・発展するきっかけとなりました。
荘園制が解体され、土地所有と年貢負担が明確になり近世の封建制度の基準が確立されました。
主な特徴
全国統一の基準:測量単位や升の基準を全国で統一しました。
長さは:1間を6尺3寸(約1.91m)と定る、面積は:1町を10反、1反を10畝※3、1畝を30歩と定る。
▲※3.畝(うね)とは、土地の区画を細長く盛り上げたもの、生地の表面の立体的な筋、土地の面積の単位という3つの主な意味があります。
それは
1.畑や田んぼの「うね」
意味:畑で、作物s栽培のたに土を細長く盛り上げた部分のこと。
目的:水はけや水持ちを良くしたり、地温を調整したり、作物の根が張るスペースを確保したりするために造られ。
特徴:溝を挟んで並んでおり、作物の生育環境を整える役割があります。
2.織物や編み物の「畝」
意味:織物や編み物の表面に現わる、立体的に盛り上がった筋のこと。
別名:「リブ」や「コード」とも呼ばれます。
種類:縦方向の畝(縦畝)、横方向の畝(横畝)があり。
代表例:コーデュロイ生地が代表的で、畝の幅によって、カジュアルな雰囲気と上品な印象が変わります。
3.土地の面積の単位としての「畝」
意味:日本の伝統的な尺貫法の土地の面積の単位の一つ。
大きさ:一反の10分の1、30秒に相当し、約$99.17$平方メートル、または、約$0.001$アールです。
用地:主に田畑の面積を表すのに使われていました。
主な特徴
石高制の導入:土地の等級(上・中・下など)ごとに、1反あたりの標準収穫量(石盛)を定め、土地の生産性を「石高」で示すようにしました。
一地一作人の原則:土地の耕作者と年貢負担者を一対一で結びつける原則を定め、土地を耕作する百姓を検地帖に登録しました。
荘園制の解体:これまで複数の人が関わっていた土地の権利関係を整理し、荘園を解体しました。
検地帖の作成:調査結果は「検地帖」に記録され、豊臣政権はこれを用いて全国の土地を把握し、大名支配の基礎とした。
背景と目的
目的:統一的な土地の生産性を把握し、年貢を徴収しやすくするため。
結果:豊共秀吉が全国の土地を支配する体制を確立し、大名の配置換え(移封)を可能にした。
別名:「天正の石直し」「文禄の検地」とも呼ばれた。
太閤検地に異論
太閤検地は、豊臣秀吉による全国統一政策の一環として行われましたが、これには激しい抵抗や異論が存在し、特に、従来の土地支配の権益を失う立場の人々からの反発が大きかった。
国人・土豪層の反発
太閤検地の目的の一つは、中世的な荘園制度を廃止し、豊臣政権による一元「的な支配体制を確立することでした。
これにより、土地の所有者や年貢徴収権を持っていた各地の国人や土豪といった中間支配層は、その地位や権益を失い、領主(武士)か農民のどちらかの身分に明確に分けられることになりました(兵農分離)。
この構造改革は彼らにとって大きな打撃であり、新領主や豊臣政権に対する一気という形で現れました。
肥後一揆が天正15年1587年)に起きる:肥後国(現・熊本県)の国人であった隈部親永らが検地に反対して起こした大規模な一揆です。
5ヶ月にわたって豊臣軍と交戦する激しい抵抗があった。
大崎・葛西一揆は天正18年(1590年)に起きる:陸奥国(現・東北地方の一部)で発生した一揆も、太閤検地や奥州仕置きに対する反発が原因の一つとされています。
農民層の一部から不満
太閤検地は、「一地一作の原則」を確立し農民(耕作者)を検地帳に登録して年貢の負担者としました。
これにより、農民の耕作権は公的に認めらた側面もありますが、同時に年貢負担の義務も明確化・厳格化され、地域によっては、検地によって年貢負担が増加したり、これまでの慣習的な権利が否定されたりしたため、農民レベルでの不満も存在しました。
こうした不満は、大規模な背景要因となることもありました。
対策
秀吉は、こうした検地に対する抵抗を抑え、支配体制を強化するために刀狩令を発令し、これは農民から武器を没収することで、武装解除させ一揆の発生を未然に防ぐ目的があり、太閤検地は豊臣政権による近世的な支配体制を築く上で非常に重要な政策でしたが、中世的な権益を持つ層からは強い異論や物理的な抵抗に遭っていました。