「岩村」駅を降りて改札口を出ると目の前に岩村城が見える。
その麓に城下町。
岩村町は標高が駅付近で500mから城下町へ登って行くにつれて515mと高低差があり、夜は気温がぐ〜んと落ちます。
そんな岩村城は日本百名城の一つで標高717mです。
まずJRで岩村城へ行く道順
まず、中央線の「恵那」駅で下車して、すぐ横の第三セクター明知線のりばに行けば「明智」駅行きに乗れます。
▲中央線「恵那」駅のすぐ横に明知線「明智」駅行きがあります。▲明知線
単線で「恵那」駅〜「明智」駅間を、だいたい一時間に一本の割合で出ています。
▲「恵那」駅と「明知線」のりば
毎日12時25分発の列車はグルメ列車として運行、春夏はヘルシーで健康的な「寒天列車」秋はキノコづくし料理を堪能してもらう「キノコ列車」冬から春にかけて滋味溢れる「とろろの自然薯列車」日本酒飲み放題の「枡酒列車」などがあります。
▲パンフレット参照
興味のある方は、沿線の四季折々の地元の食材を生かした料理を味わいながら、終点の大正村・岩村で下車なら岩村城跡またNHKで話題になっ梟町『半分、青い。』の城下町を散策して、是非参加されると良いと思います。
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希望の方は5日前の3時までに明知鉄道 本社☎︎(0573)54–4101で予約とってください。
※詳しくは、締切り日などは、上記の明知鉄道でお尋ねください。
車でお越しの方はこのURLをクリックしてくださ。
ここから城下町へ入っていきます
「岩村」駅で下車したら目の前には「かわい」という食堂と城山が目に入ります。
目の前の「かわい」は、記者から見てまあまあ美味しい食堂で、もう一軒本町一丁目に,ここもまあまあの「鳥兵」という食堂があります。
ここの二軒が岩村の町では大筋間違いがない食事ができるとこです。
あとは、そこらに食堂がありますが、田舎なので料金が割高です。
五平餅か,かんから餅(ここには美味しいうどんあり)を食べたほうが良いと思います。
東方向↑です。
▲「岩村」駅付近の案内
「かわい食堂」を出て道を右に廻って行くと四つ辻があります。
それを左折すると岩村の本町商店街(城下町)に入ります。
まだこの付近は新町というぐらいだから新しい町です。
ず〜と歩いて行くと左側に団子の五平餅屋さん→最近岩村町にやってきた①「書画家の伊藤一樹」の工房があり→旧柴田家→②巌邑天満宮→③道標あり→④かんから屋→五平餅のみはら→⑤水半名物販売店→⑥カステラの「かめや」→⑦旧勝川家→⑧浅見家→⑨土佐屋→⑩木村邸→⑪木村邸の裏に「なまこ壁」あり→岩村資料館(藩主邸跡)→城山へと登って行きます。
ざ〜とこんなところです。
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城下町の商家の重要伝統的建造物保存地区歴史的の説明。
①の説明:書画家の伊藤一樹のURLがあります。ご覧ください。
②の説明、巌邑天満宮:福岡県大宰府市にある神社。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
巌邑天満宮は文政五年(1822年)⑩の木村弥五八筑紫に遊び大宰府天満宮へ参詣し、同行の橋本氏並に定八と相談し、若者をかたらい天満宮の社を建立せんと、始めは天王山に建てんと石垣を積みしに場所狭くして、折節新町普請中なれは文政甲年今の境内に建てる。
▲巌邑天満宮
社紋は梅紋で管原道真(管原道真公、菅公)を祭神として祀る天満宮の一つ(天神様のお膝元)。
初詣の際には九州はもとより日本全国から毎年200万人以上の参詣者がある。
現在、京都の北野天満宮とともに全国天満宮の総本山とされ、また菅公の霊廊として驚く信仰されている。
菅原道真が京の都を去るときに読んだ
「東風(こち)吹かば 匂いをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名です。
その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」も有名です。
③の説明:道標の写真
▲道標
④の説明:かんから屋の写真
▲かんから餅の「かんから屋」
⑤の説明:
▲水半名物販売店といわむら名物
⑥の説明:亀屋の写真◆◆
▲かめやと店内のカフェ
⑦の説明:勝川家は屋号を松屋といい、江戸時代初期からの材木や年貢を扱った土着の商家、母屋の主体は当時の面影を残しています。
▲勝川家
離座敷の縁は岩村城の遺構の材木の一部が使われ、また裏手の米蔵は、同じく武器蔵その他の土蔵を移したもので、年貢米三千俵を納めたと言われている。
岩村藩の財政に度々の援助を行なってので、御下賜品があり、最後の藩主松平乗命に嫁した尾張徳川家の釣姫(ちょう姫)の遺品なども保存されている。
※釣姫様のことはURLを見てください。
⑧の説明:浅見家の祖先は江戸時代の初代藩主松平家乗が、慶長6年(1601年)上州那和(群馬県)より転封のとき随行してきたと言われる。
▲「大給松平宗家」が初代岩村城主「松平家乗」が転封そて来た時随行して来た浅見家
累代の当主は、御用達職、庄屋、問屋職などを勤め、藩の財政を援助した。
宝暦9年(1759年)の郡上騒動による岩村藩出勤の軍用金を調達、天保五年(1834年)江戸岩村藩邸類焼の際に多額の金品の提供などしている。
その6年後に江戸では「天保の改革」で老中水野忠邦と鳥居耀蔵が贅沢禁止令で庶民を苦しめしている時に、北町奉行遠山の金さんが対抗していた。(因みに遠山の金さんと鳥居耀蔵のルーツはこの岩村藩と明知遠山です)
※北町奉行遠山金さんをクリックすると詳しく書いてあります。
⑨の説明:土佐屋は元禄年間(1688年〜1704年)に染物を営んでいた。
店内へ入ると土間があって、ここで染物をしていたそうだが、店が繁盛してくると一番奥へ移動した。
▲⑨土佐屋の店内
藍染をする部屋には染め壺があり、中心に火壺が置かれ廻りの染料を温めていた。
2階は干し場とされ、往時の染物屋を彷彿とさせる。
▲⑩木村家
⑩の説明:木村家の祖先は三河挙母藩(現・豊田市)の藩主で寛永15年(1638年)の岩村藩主丹羽氏信が転封の際随行して来た。
その後、問屋職、御用逹職などとなり、物資の交流を図って財をなした。
折々の藩の財政困難の際には御用金を調達して危機を救った。
六代知英は文化人でもあり数多くの業績を残した。代々の藩主はしばしば当家を訪問している。
文政五年(1822年)⑩の木村弥五八筑紫に遊び大宰府天満宮へ参詣し、同行の橋本氏並に定八と相談し、若者をかたらい天満宮の社を建立せんと、始めは天王山に建てんと石垣を積みしに場所狭くして、折節新町普請中なれは文政甲年今の境内に建てる。
表通りに面した小窓は見張りの窓で、武者窓と呼ばれている。
茶室、書院造りの上段の間、欄間、庭等は往時を偲ばせるに十分な趣を残しています。
⑪の説明:ナマコ壁これは「文久3年癸亥5月廿日知周(ともあき)代於御城山材拜受東方倉庫四ヶ所共撰吉辰同年建所也 酒造蔵棟梁釜屋村高津和吉重勝」これは木村家のナマコ壁のある旧酒蔵の一部を解体の際、たまたま発見されたもの、この蔵の壁保存のため、その表面に平らな角瓦を斜めに並べ、縦目を漆喰で
固めたものがナマコ壁です。
▲木村家の裏にある「ナマコ壁」
その盛り上がった形が海鼠に似た所からその名がつきました。
城山の登城口付近にあった藩主邸
岩村資料館は:の立っている場所は元藩主邸でした。
※藩主邸をクリックすると藩主邸の関連記事があります。
歴史の事は岩村の住民に聞いてもあまり詳しいことは知らないと思います。
逆に教えてやってください。
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また、岩村・近郊に沢山のお寺んあります。 現在残っているお寺さん:清楽寺・隆崇院・浄光寺・盛巖寺・東光院・萬勝寺(飯高山)、神社も沢山あります。その他歴史は多数あります。