源頼朝の重臣加藤景廉を祖とする嫡男景朝が標高717mに岩村城を築城する。
時は平治の乱※1(1150年)保元の乱※2の頃(1156年)の東濃地方は野武士や盗人が奔放※3に振舞っていた時代です。
※1:平治の乱とは、1159年保元の乱の後に対立が深まった平氏と源氏の間で起こる争いです。
※2:1156年(保元元年)7月に起こった「保元の乱」は、皇位継承問題などの朝廷内の内紛から起こったも ので、後白河天皇と祟徳天皇の分裂によって源氏と平氏の武力が加わった政変です。
※3:奔放とは、常識や規範にとらわれないで、自分の思うままに振る舞うこと。
その後、源 頼朝が伊豆にて旗揚げの時、加藤次(加藤景廉)も頼朝下臣として従い、平家の山木館の襲撃※4で戦功を挙げました。
その恩賞として、加藤次の所望する東濃地方を彼に託し、地頭に任じました、これが岩村城の始まりです。
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※4 山木館とは。
1160年(平治2年)「平治の乱」の戦に敗北したため伊豆国に流され、頼朝が20年後の、1180年(治承4年)に伊豆国で源 頼朝が挙兵した年です。
源 頼朝が最初に標的に選んだのは伊豆国の目代山木兼隆でした。
山木兼隆は、父和泉守信兼の訴えによって伊豆国の山木郷に配流された流人でしたが、以仁王の乱のあと、懇意であった検非違使別当・平時忠が伊豆を知行することになり、平時兼が伊豆国司となり、許された平兼隆は、そのまま「伊豆目代」※4に任じられ、山木兼隆は伊豆で勢力を持つようになりました。
※4.目代とは、平安時代中期から鎌倉期に、遙任国司が現地に私的な代官派遣した家人などの代理人のことで眼代ともいう。転じて本来なら役職上、現地に下向して執務しなければならない人物の代理として派遣された代官などの役人の事を指す。
平家物語・曽我物語によると、北条時政は娘・北条政子を山木義隆に嫁がせようと考えていました。
しかし、伊豆豪族等にしてみれば、流人で来たのに、平氏の権威だけで伊豆の実力者となり、威張り始めた山木義隆に対して、伊豆豪族がいいとは思わない。
そんななか、北条時政が大番頭で京へ上がっていた間に、イケメンの頼朝と北条政子が恋仲になってしまいます。
山木義隆との縁談を進めていた北条時政は、平清盛の逆鱗を恐れ、無理矢理にでも娘・政子を山木義隆の所へ送ろうとしますが、政子は逃げ出してイケメンモテモテ男の源頼朝の元に駆けつけたともあります。
これを聞いた山木義隆は怒りましたが、二人は伊豆山権現に逃げ込んだため、手が出せなかったともいわれます。
になって郡郷を支配してました。
当時、伊豆国の知行国主は「平家にあらずんば人にあらず」と言い放った平 時忠です。
平 時忠は一族の平 時兼を国主としますが、平 時兼は赴任せず、山木兼隆を目代とし、堤権守信遠がその後見をしていました。
源 頼朝が挙兵した8月17日は、尊崇※5していた三嶋大社の大祭の日で、頼朝は祭りの雑踏を利用して山木館を襲撃しようとしたのだと伝えられています。
※5.尊崇とは、先祖を尊崇する
▲三嶋大社(三島市)
山木館は要害の地にあって、攻めるのに困難を極めると推測されていました。
そこで源 頼朝は、藤原邦通を密偵として山木館に送り込んで、館図や地図を作らせていました。
その出来映えは、まるで現地にいるかのようなものだったと言われています。
一方、平氏も頼朝討伐のために動いていました。
8月2日には、平氏の大庭景親をはじめとする東国武士が京都から戻って来ています。
しったがって、源 頼朝の行動も火急を要していました。
山木館襲撃の前日(8月16日)は雨でした。
源 頼朝が頼みとしていた佐々木四兄弟(定綱・経高・盛綱・高綱)は、この日到着するはずでしたが、洪水のため遅れ、到着したのは合戦当日(8月17日)の午後になってからでした。
そのため、朝方に山木館を襲撃する予定が変更され、その晩に源 頼朝は
加藤景廉と佐々木盛綱を傍に残し、山木館を攻めさせます。
まず、佐々木定綱、軽高、高綱の三人が、山本兼隆の後見役堤権守信遠を討ちます。
この時、軽高の放った鏑矢が、平氏を征伐するための最初の矢となりました。
その後、佐々木兄弟は、山木兼隆襲撃の軍に加わります。
源 頼朝は「戦いが始まったら火をつけるように」と命じていましたが、その火がなかなか見えないので、留守の加藤景廉、佐々木盛綱、堀親家らを山木館に向かわせました。
加藤景廉には、長刀を与え「兼隆の首を討って持参すべし」と命じています
そして、盛綱・景廉が山木館に入り、見事に山木兼隆を討ち取りました。
▲頼朝から長刀を受けとる景廉 ▲山本兼隆を討ち取る
そこで頼朝より1185年(文治元年)に東濃地方・恵那郡岩村町の遠山荘の地頭になり祖(祖とは、その血統、一家系の最初の人という意味)息子嫡男加藤景朝に城を築かせ遠山景朝と名を改めた。
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戦国時代には武田信玄と織田信長の岩村城争奪戦合戦
それから遠山家は武田信玄に攻められるまで、最後の城主遠山景任1572年(元亀3年5月18に戦病死)まで387年続いた。
遠山景任には子供がいなかったので遠山氏の血統が断絶したため、信長は東美濃の支配権を奪う好機とし岐阜城留守居の河尻秀隆や織田信広を岩村城に派遣して占領すると、自らの子御坊丸(のちの織田勝長)を亡くなった遠山景任の養嗣子養嗣子継がせ、景任の妻すなわち信長の叔母のおつやの方を後見人とした。
これを知った武田信玄は東美濃の支配権が信長に奪われたことを対して、伊那郡代秋山晴近(信友)と依田信守を東美濃へ派遣して岩村城の奪還を命じた。
包囲された岩村城には武田氏に仕えた者が多く、降伏しれ御坊丸を人質として差出し、信玄の許しを得て秋山晴近が岩村城に入っておつやの方を妻とすることで遠山氏と武田氏の和議を成立させた。
これで鎌倉時代から続いた遠山氏の支配は終わりを告げた。
各地方に名城といわれる城はあるけど鎌倉時代から残っている城は数は少ない。
それだけ岩村城は歴史がいっぱいある。
遠山の最後の城主・遠山景任は元亀3年(1572年)8月18日に戦病死して約387年続いた遠山家が途絶えた。
おつやの方が信長の子を養嗣子と迎えていた御坊丸(のちの織田勝長)は、武田軍に人質とて差し出され、城主は武田軍の秋山信友に変わった。
1570年代には織田信長と武田信玄の間で岩村城の争奪戦がくりひろげられました。
現在見られる石垣造りの城跡は、関ヶ原の戦い後1601年に入封した松平家乗(家康の一字を貰って家乗となった大給の本家)によって建て替えられた石垣作りです。
▲岩村城
城山の最高所に本丸を置き、山頂一帯に二の丸、城の内外を区画した東曲輪、出丸、三の丸にあたる八幡曲輪を配置しています。
石段を6段積み上げた6段壁の前から本丸への道は、二の丸を通って行く道と東曲輪を通って行くありますが、どちらも石垣で固められた空間を折れ曲がりながら進むのは圧巻で、完成された近世城郭の姿を表しています。
八幡曲輪には、戦国時代から鎮座する八幡神社(現在は城下の上町に移転)や上級藩士の屋敷が配置されていました。
他の城では山麓にあるもので、これも岩村城の特徴です。
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城は東側に位置し、北側には武家屋敷、南側には町人屋敷を配置。
城下町は城山の北西山麓に広がり、東西に流れる岩村川を境にして北に武士の居住地の武家地、南に町人地が配されました。
町人地は岩村町本通りとして国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、江戸時代から続く町並みが残っています。
昨年はNHKの連続テレビ小説『半分、青い。』のロケ地となり多くの観光客で賑わいました。
武家地である殿町や日の出町、新市場、江戸町など武家屋敷は残っていませんが、江戸時代の町割りや道路が残っています。
大将陣公園は織田信忠が秋山信友・おつやの方を攻撃するために陣地としていた場所も残っています。
岩村城の最大の魅力は、加藤景廉が最初に岩村へ来て城山に城を造ったことが始まり、今も10月の第一土・日になると八幡神社(八幡さん)と武並神社(武並さん)への行列が盛大に繰り広げられます。