ここに、斎藤利三という人物が現れ、それは何者で誰じゃんと読者は怪訝な顔して不思議に思う人もいるでしょう。
▲斎藤内蔵助利三の図
斎藤利三(さいとうとしみつ)とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、明智光秀の家臣、そして春日局の父、ここが問題です。
春日局とは、皆さんもご存知の春日局です。
その春日局の父が斎藤利三です。
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第三代徳川将軍徳川家光はお福(春日局)の子?。
光秀は知らぬ間、斎藤利三が先導して本能寺へ、それで光秀は謀反の張本人にさせられた。
か??。
▲春日局像 ▲徳川三代将軍徳川家光
足軽の本城惣右衛門覚書での斉藤利三の役
ここに本城惣右衛門の覚書があります、これは当人が自慢話と当時の事を書いたもの、真実かどうかはわからぬが、ある程度は真実だと解釈をします。
彼は本能寺の変で明智光秀に従軍していた光秀配下の足軽・本城惣右衛門が、江戸時代に入って晩年、親族と思われる三人の人物に宛てた記録の内一番乗りで本能寺に侵入したという部分を掲載した書物です。
この覚書から本能寺の変がどのように行われたのかが伺える重要な資料となっている。
原文を現代風に書き直したものを掲載
『明智光秀が謀反を起こし、織田信長様に腹を召させた時、本能寺に私たちより先に入ったという人がいたら、それは嘘です。
まさか、信長様に腹を召させるとは夢とも知りませんでした。
その時は、太閤秀吉様が備中で毛利輝元様と対峙していたので、明智様が援軍を申しつけられたのです。
京都の山崎の方へ行くと思っていたら、逆の京都市内の方へ行けと命じられましたので‥‥
討つ相手は徳川家康様であるとばかり思っていました。
また、本能寺というところも知りませんでした。
進軍の途中、軍勢の中から馬に乗った二人の武将が前に出てきたので誰かと思ったところ、斎藤内蔵助殿(利三)の子息で小姓を二人連れていました。
本能寺へ向かう間、我々は、その後ろについて行きました。
形原町に入ったとき、子息殿は北の方へ向かう間、我々は南のほりに沿って東に向いて進んだところ、本能寺に入る道に出ました。
橋の側に門番がいたので殺して首を取りました。
そこから本能寺に入ろうとしたところ、門は簡単に開いて、中にネズミ一匹いないほど静かでした、
門番の首を持っていたところ、北側から入ってきた三宅弥平次殿と伝令将校の二人がやってきて、「首は討ち捨てろ。」と言われましたので、堂の下に投げ入れますた。
本堂の表から中に入ったところ、広間には誰もいなくて、蚊帳が吊ってあるだけでした。
寺の台所の方を探索したところ、白い着物を着た女を一人捕らえましたが、侍は誰もいませんでした。
捕らえた女は「上様は白い着物を着ておられます。」と言ったのですが、その時は、その女が言った「上様」が「信長殿」とはわかりませんでした。
この女は斎藤内蔵助殿のもとに連れて行きました。
旗本衆の、二・三人が肩衣に袴の裾をたくし上げた姿で堂の奥に入って行き、そこで首を一つ取りました。
一人の男が、奥の間から麻の単衣(寝巻着)を着て、帯もしないで、刀を抜いて出てきたので私は蚊帳の陰に入り、その者が通り過ぎるのを待って、背後から切って首を取りました。
その頃には建物の中には我が軍の多くが入っていました。
この襲撃時には、以上の通り、敵の首を二つ取りました。
褒美として、槍を貰ったので、野々口西太郎殿に伝えます。』
と、こうである。
↑
このように書いてます。
真実か真実でないかは、あなた次第です。
なぜかというと、光秀が信長を討つ理由がわからない。
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公家に反信長の動きは存在し、更に義昭、堺衆、本願寺、雑賀衆、丹羽秀等、反信長勢力は各地に数多く存在し活動していた中で、本能寺の変の当時、光秀は在京信長軍団幕僚のトップとして織田軍に関わる情報の全ては光秀のもとに集まっていた。
そして、光秀は変前の一年間、ほとんど信長の周辺にいた。
そして覚書にあるように、本能寺攻めは明智光秀方の将兵達にも敵が信長であることを知らせないまま、粛々と実行されてのである。
明智軍兵士達は、「徳川家康」を攻撃するとばかり考えていた。
本能寺攻撃の現場に明智光秀はおらず、直接指揮をとったのは、斎藤利三や明智秀満勢であった。
▲信長が撃たれた本能寺 ▲今の本能寺
本能寺には信長以下100人に満たない将兵が、守りをほとんど行わないまま滞在していた。
本能寺では戦いらしい戦いはされず、しかも、信長のみを狙った襲撃作戦であった。
本城惣右衛門覚書は、本能寺の変に明智光秀の配下で従軍したという武士・本城惣右衛門の手記。
惣右衛門本人が最晩年である江戸時代の寛永17年(1640年)に若い頃の経験をまとめ、親族と思われる本城藤左衛門らに書き残したものである。
五千字ほどの文章。
現在、奈良県の天理大学附属天理図書館所蔵。
本城惣右衛門とは、丹羽国の地侍で、天正年間に丹羽本目(もとめ)城主の野々口西蔵坊(清親)の家来として、本能寺の変に従った。
本能寺がどこにあるかも知らず、敵が織田信長だとも知らなかった証言しています。
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公家の日記から参考にしてみる
以下は、本能寺の変についての記述がある日記や、当時のことを記録した重要な史料の紹介です。
①『信長光記』
信長の日記のような内容だが、著者は太田牛一。
書かれたのは秀吉の時代の後半である。
本能寺の変については、光秀の謀反と書かれているが、真相を示す記述は全くない。
②『御湯殿上日記』
宮中の女官たちの日記。
本能寺の変のあった時代にも書き継がれているが、肝心の天正十年(1582年)四月から七月までがかけている。
③『兼見卿記』
吉田兼見(兼和)の日記。
兼見は京都の吉田神社の神官であると同時に下級の公家でもある。
日記は、本能寺の変のことが書かれていたはずだが、あとで書き直されており、天正十年の日記が二冊あるが、この中にも本能寺の変の真相は書かれていない。
④『日々記』
勧修寺晴豊の日記。
この日記には本能寺の変のことが書かれているが、晴豊自身は、六月二日早朝には、まだ寝ており、袖岡越中に乱暴に叩き起こされている。
袖岡越中「明智勢は本能寺を取り囲み、早くも突入した由にございます」
晴豊「信長は死んだか」「そうか死んだか」
⑤『日本史』
宣教師ルイス・フロイスが執筆したもの。
秀吉政権の末期に完成している。
本能寺の変に関しては、次のような内容のことが書かれている。
京の南蛮寺と本能寺とは近く、六月二日未明、本能寺の方角で大爆発が聞こえた。
修道士たち十数人が外に出て、本能寺の方を見ると、多数の兵が寺を取り囲んでいた。
旗は伏せられており、何者の軍ともわからなかった。
これでは犯人も真実も不明ということになる。
⑥『川角太閤記』(太閤さま軍記のうち)
同じく秀吉の時代に書かれた。
やはり、本能寺の変の実行犯は明智光秀と書かれているが、真相については全く触れられていない。
⑦『武功夜話』
秀吉が亡くなったあと書かれた前野将右衛門縁者の『武功夜話』には、本能寺の変のことはほとんど出てこない。
(同書引用)
実行犯は斎藤利三か
実行犯は公家の日記にあるとおり、斎藤利三です。
利三の娘お福(後の春日局)で、天海との子の家光を家康の一声で三代将軍にしています。
▲明智勢(イメージ)
家康は利三に義理があるわけで、それが信長に命を狙われていた証拠です。
ちなみに天海※1は光秀の子の明智光慶※3らしく、だから家「光」なんです。
資料がの残ってないのは、闇に葬られたため徳川政権のトップシークレット中のシークレットだからです。
※3:明智光慶とは、明智光秀と煕子の嫡男、細川ガラシャは姉です。
※1天海と明智光秀の関係を窺わせる根拠があります
天海と明智光秀が同人物論者である根拠は以下のものがある。
1.日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある。
2.徳川家光の乳母には、明智光秀の重臣の斎藤利三の子春日局が採用され、家光の子徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣溝尾茂朝の孫三沢局が採用されていること。
3.山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折西軍に降伏したにもかかわらず、戦後加増された。
一方、光秀寄騎でありながら山崎の戦いで光秀に敵対した筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されていること。
4.明智光秀の孫織田昌澄※2は、大阪の陣で豊臣方として参戦したが、戦後に助命されていること。
※2:織田昌澄とは、生母は光秀と継室妻木煕子の娘のため、外孫にあたる。
5.明智光秀と天海は地蔵菩薩を信奉していたこと。それぞれの地蔵菩薩像は京の廬山寺(ろざんじ)、江戸の正徳院に奉納されている。
6.天海の墓所が、明智光秀の居城があった近江坂本にあること。
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まとめ
信長が家康の命を狙っていたのは、家康が松平元康を殺し成り代わって、
元康の子信康を殺すのに、信長のせいにしたからです。
信康の信は信長からもらったもので、正室も信長の娘五徳です。
信長は一番信頼の厚い光秀に、家康殺しを命じたが、光秀が、愛宕山に金を借りに行っていた時に、斎藤利三が「単独で兵を動かし」、兵には家康を殺しにいくと言って、先陣を本能寺に向かわせ信長を殺した。
▲愛宕山(当時光秀は愛宕山にて金を買いに行ってた)
これは本城惣右衛門の残した手記と照らし合わせると、納得します。
愛宕山から帰ってきた光秀は慌てて事後処理を図るが、予想をしてた秀吉にいち速く情報の裏をとられ、京都に集結しようと、光秀と利三を誘い出して、山崎で二人を騙し討ちにしてしまう。
つまり黒幕は徳川家康で、実行犯は斎藤利三で、当時利三は光秀の与力だったので、光秀が信長の正室奇蝶の命令で、利三が実行したものと思い責任をとったのでしょう。
信長は家督を信忠に譲ったために、奇蝶が妬み、また、利三の妹が四国の長宗我部に嫁ぎ、長宗我部と縁の深い吉田新道は当時の銀による金融を司っていた。
信長は銀資本から外国の金資本に転換しようとしていたため、経済体制の変換と、また、信長は朝廷から農奴を開放しようとしていたので、敵が多かったのも、斎藤利三の犯行を実現させた原因です。