岩村町にある岩村城は、なんと言っても今から約830年前に、加藤景廉の嫡男・遠山景朝がお城山に砦を築いたのが始まりです。
▲ここが標高717mの頂上です。
お城の方角が東、岩村駅の方が西に方向です。
岩村川を境いに南が町人街、北が武家屋敷に造り替えたのが、織田信長の家臣・河尻慎吉です。
▲城下町がこの様に河尻慎吉によって移転されました。
天正3年(1575年)から天正10年(1582年)の間、長きにわたって岩村城主になっていた、信長の家臣・河尻慎吉が岩村に入ってきた時は、まだ、城下町は城山の東側、冨田の方に城下町がありました
※上記の河尻慎吉をクリックしてもらうと、城下の移転が詳しく書いてあります、興味のある方はご覧になってください。
遠山氏の菩提寺が城を降りた東側に(冨田)位置する所に大圓寺といお寺がにありました。
その大圓寺を武田軍の秋山虎繁(後に、おつやの方の夫になった武将)に攻撃されて焼かれてしまった。
そのとき、信玄の命で住職、希庵和尚とお供が、飯羽間城の近くで殺害されてしまったた。それで武田軍が岩村城を奪い取った
※上記に希庵和尚の詳しい物語がありますので、興味のある方はクリックしてください。
それで信長は、長篠の戦いが終わって、織田信忠に3万の大軍与え、岩村城にいる、秋山虎繁夫妻と戦い勝利した。
結果、河尻慎吉が戦乱続きだった世から、領民たちを安心させたいと思い、東にあった城下町を今ある西側に移しました。
町の中には、いまも残る天正疏水路があります。
大将陣と大将塚のいわれ
天正3年(1575年)5月、武田勝頼軍と織田信長軍が長篠の戦いで大勝した織田信長は、すぐ3万の大軍を長男・織田信忠に託した。
叔母であるおつやの方を手籠にし、五男・御坊丸を人質にして、甲府に送った憎き武田氏の武将・秋山虎繁を絶対に倒さねばならないと、復讐心に燃えていた。
▲このイラストは「いわむら昔ばなし余話」の中から使用しました。
本陣を西側にある小高い丘に陣をはって攻撃をした。
このことから、織田信忠が陣をおいたから、大将陣と呼ぶようになった。
大将陣と大将塚
▲ここに大将陣と大将塚とイボ神様の説明があります。
妙法寺
▲妙法寺 ▲秋山虎繁とおつやの方を弔った碑
三万の大群で攻撃をするも難攻不落の岩村城、すさましい戦いでした。
ちょうど半年が過ぎて、城山の裏に三森山の次に高い山、水晶山に家臣の河尻慎吉が、敵に悟られないこっそり登った。
頂上からは岩村城がよく見えるので、鉄砲隊を登らせて城を目掛けて撃たせたので城の中は大騒ぎになって矢を打って反撃したけど水晶山にいる織田軍には敵いません。
冬も迫り援軍の望みも絶たれ、窮地に陥った秋山虎繁は、塚本小大膳を使者に立て、信長に降伏を申し出て織田方に受け入れられた。
しかし、信長は、自分の叔母のおつやの方を自らの妻にして岩村城を乗っ取った秋山虎繁と、虎繁と結婚して武田方に寝返った叔母のおつやの方を憎悪していた。
信長は、11月21日に城将の秋山虎繁・大嶋杢之助・座光寺・伴野が赦免の参礼に来たところを捕らえて、激怒していたから、約束を破りこの丘で処刑されたという。(町史によれば)
亡骸を葬った塚を大将塚という
一方、助命を約束されて城兵3,000人(婦女子も含む)は信州を目指しれ城を出ていったが、少し行ったところに木の実峠というところで、前後左右から織田軍の伏兵に攻められ全滅した。
大将陣の中央付近に、秋山虎繁、おつやの方、木嶋杢之助、座光寺為清、下条信氏(町史では、この名前を発表してる。信玄の義兄弟)を葬った塚が大将塚と言われている。
▲これが大将陣の中にある大将塚です。岐阜長良川で逆さ磔にあった者を岩村まで運んでくるだろうか?長良川で処刑されたことは間違い無いです。下記に信長の黒印状の記事のURLを貼り付けておきます。
※興味のある方は、上記の信長の黒印状をクリックしてください。
事実判明した
大将陣で処刑※1されたことが、実は間違いで、岐阜に連行し、おつやの方、秋山虎繁、座光寺三郎左衛門尉貞房、木嶋杢之助、大島五郎左衛門長利共々、岐阜城近くの長良川の河原で逆さ磔の極刑に処したという事実が判明された。
※1.大将陣で処刑された名前は、町史によれば、下条信氏(信玄の義兄弟で、信濃吉岡城主)で、下条信氏は、勤番明けで岩村城から伊那へ帰っていて難を逃れていた。彼は家康にも通じ、うまく戦乱の世渡りをした武将であったとのこと。
したがって、開善寺の過去帳からの同日3人とも討ち死にある伴野三良左衛門が逆さ磔にされた、5人の中の一人であり町史の間違いだと思われる。郷土史家によると豊岡村(松川・高森に隣接)に伴野庄(とものの庄)があり、伴野氏は信玄に近い武将で起請文奉呈者に名を連ねている、注釈がある。
▲これが開善寺過去帳です。
武田方に組して城に籠城していた遠山氏の一族郎党は、馬木十内・馬坂求馬・須淵傳左衛門・久保原内匠・大船五六太が討死し、遠山二郎三郎・遠山市之丞・遠山三郎四郎・遠山徳林斎・遠山三右衛門・遠山内膳・遠山藤蔵らは城中の市丞丸に入り自刃。残党は全て焼き殺された。
徳川時代になって松平氏の後丹羽氏が五仏寺を建立
江戸時代となって当初は、松平家乗、乗寿に続き、寛永15年(1642年)岩村城主・丹羽氏信が岩村藩に入った。
丹羽氏3代の丹羽氏純は、弟や娘が若死するなどの不幸が続くことから江戸の有力な占い師に見てもらったところ、「天正3年に織田信長に逆さ磔にされた5人の霊を弔うように」とのお告げがあったので、氏純は早速、処刑の場所大将陣の隣接地に(妙法寺東隣り)に五仏寺を建立した。
しかし、その効果は無く、父の氏純は30歳で没し、更に子は、氏明は8歳で家督を継いで20歳の若さで疱瘡(ほうそう)にかかり世を去った。
氏明は、急死で妻もなく子もなく、末期養子の手続きで幕府役人に裏工作して藩主・五代丹羽氏音の時、お家騒動が起き、藩主の家中取締り不行き届きにより2万石から1万石に減らされ、越後高柳へと転封になったと同時に五仏寺も廃寺となった。
後に来た初代松平乗寿の孫の松平乗紀が岩村藩に入封してきた。
7代続いて武家社会は終わった。