3代将軍・源実朝が甥の公暁に暗殺されて、源氏将軍を失った鎌倉幕府執権の北条義時は、第4代将軍として後鳥羽上皇の皇族将軍を朝廷に要請しますが、後鳥羽上皇は義時に御家人の処分を取り消すよう要請します。
これは政治的な介入であり、とても幕府が許容するものではありませんでした。
結果、両者とも要請は拒否され、第4代・将軍には摂家※1から満1歳である藤原頼経を迎えることになりました。
※1.摂家とは、鎌倉幕府中期に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家(序列順に並べました)の5つの一族のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家。五摂家、執柄家。(「執柄」とは権力掌握※2のことで摂政・関白の別名)ともいう。この5家の中から藤氏に長者も選出された。
※2.掌握(しょうあく)とは、手の中に握り持つこと。自分のいのままに使いこなせる状態にしておくこと。
これによりお互いに政治的介入を強めようとする両者の対立が顕著となります。
そして義時が将軍補佐という名目で執権政治体制を敷くと、後鳥羽上皇はついに義時の追討を決意することになります。
では承久の乱の朝廷軍の挙兵からみていきたいと思います。
朝廷軍挙兵
承久3年1221年5月、朝廷軍は後鳥羽上皇が挙兵、幕府軍の総大将は執権の北条義時です。
場所は京都山城国、5月14日、後鳥羽上皇が諸国の御家人らを京都に召集し、幕府側の公暁・西園寺公経を幽閉してしまいます。
朝廷側は、大内惟信、三浦胤義、山田重忠、小野盛綱、佐々木広綱さらに京都守護である大江親広が召集に応じました。
この大江親広は幕府の大江広元(幕府側の政所別当、大蔵御所公文所別当)の嫡男です。
しかし、もう一人の京都守護で北条義時の義兄の伊賀光季※3は召集に応じませんでした。
※3.伊賀光季とは、北条義時の継室の伊賀の方の兄。
そして京都で孤立することになります。
後鳥羽上皇は藤原秀康を総大将、その弟の藤原秀澄を大将とした朝廷軍を組織して、翌15日、朝廷軍が京極高辻にある伊賀光季の館を襲撃させます。
伊賀光季は、義弟の義時に上皇挙兵を知らせる使者を鎌倉に派遣します。
そして奮戦したのち、子の伊賀光綱と共に自害してしまいます。
そして上皇は義時追討の院宣※4を有力御家人に発し、三浦胤義は兄の三浦義村に味方となるよう密書を送ります。
※4.院宣(いんぜん)とは、上皇からの命令を受けた院司が、奉書形式で発給する文章。天皇の発する宣旨に相当する。院庁下分よりも私的な形式。
幕府軍の出撃
場所は相模鎌倉、承久3年5月19日、幕府に上皇挙兵の知らせが入り、三浦義村は弟、胤義の誘いを拒否して密書を幕府に届けました。
後鳥羽上皇から名指しで追討令を出された北条義時は困惑しますが、姉の北条政子が御家人を集め義時追討令は非義の綸旨であるとする声明を出し、御家人たちを幕府の味方に率いれることに成功しました。
この姉の政子の策により朝廷と義時個人の戦いが朝廷と鎌倉幕府の戦いへと変わりました。
この時の政子の声明は安達景盛が代読したと伝わります。
※上記の政子をクリックすると御家人を集め演説の様子の記事が掲載されています。興味ある方は読んでください。
朝廷との対決姿勢を明らかにした幕府は軍議を行い、箱根で朝廷軍を迎撃する迎撃論が優勢でしたが、大江広元が京都への即時出兵論を主張します。
そして政子の賛同を得て即時出兵論が採用されました。
北条泰時を総大将とし、東海道軍、東山道軍、北陸道軍の3軍の幕府軍が編成され、東海道軍は北条泰時と北条時房、東山道軍は武田信光と小笠原長清、北陸道軍は名越朝時が大将となりました。
21日、先ず北条泰時が先発して出撃します。
翌22日、幕府軍3軍が出撃し泰時の軍と東海道軍で合流。
これに対し朝廷軍は幕府軍迎撃のため美濃に出撃し木曽川沿いに布陣します。
大井戸の戦い
幕府軍が出撃した翌月の6月5日、東海道軍と東山道軍がほぼ同時に木曽川に布陣し、武田信光と小笠原長清率いる東山道軍が木曽川の大井戸を守る朝廷軍と対峙します。
朝廷軍の大将は大内惟信と高桑某氏(名前が分からないので某氏としました)高桑某氏は子の高桑二郎と共に小笠原長清と交戦しますが、長清の郎党が川の浅瀬を探っていたところ、朝廷軍の中に立派な鎧を着けていた武将が目立っていたので矢で射抜かれて討死してしまいます。
この高桑某氏の討死は朝廷・軍幕府軍合わせて承久の乱で初めての戦死者となり、子の次郎は敗走することになってしまいます。
朝廷軍のもう一人の大将軍、大内惟信は子の大内惟忠と共に武田信光と交戦しますが、惟信と惟忠は奮戦しますが兵力差のため劣勢となり、惟忠が戦死すると惟信は逃亡します。
こうして大井戸の戦いで朝廷軍を撃破した東山軍は、東海道軍と合流するため川の下流に向けてエイエイヤーで進軍を開始します。
藦免戸の戦い
朝廷軍は木曽川の魔免戸を本陣とし、藤原秀康、三浦胤義、佐々木広綱らが魔免戸に布陣し、大井戸の戦いと同日の6月5日、幕府軍本隊である北条泰時、三浦義村らが率いる東海道軍も魔免戸に布陣し、朝廷軍と対峙した。
その夕刻、藤原秀康は大井戸の戦いでの朝廷軍の配送を知ると退却を決定してしままいす。
翌6日北条泰時率いる東海道軍が川を渡ると藤原秀康率いる朝廷軍は戦わずに退却を始めます。
これに幕府軍が退却する朝廷軍を追撃し潰走※5させることに成功して、結果、対峙した魔免戸の戦いでは両軍の大規模な戦闘は起こらず、幕府軍が大勝します。
※5.潰走(かいそう)とは、戦いに負けた隊が四分五裂になって逃げること。
結果、対峙した魔免戸の戦いでは両軍の大規模な戦闘は起こらず、幕府軍が大勝します。
墨俣の戦い
朝廷軍の総大勝である藤原秀康の弟、藤原秀澄率いる朝廷軍は、山田重忠と共に墨俣に布陣、重忠は藤原秀澄に兵力を集中して一点突破し鎌倉軍に攻め込む策を進言しますが、秀澄はこれを拒否して兵力を分散させ、大井戸の戦い、魔免戸の戦いの同日の6月5日、東海道軍の別働隊の北条時房が迫ると、魔免戸の戦いの配線を知った秀澄は退却してしまいます。
6日、時房率いる東海道軍「別働隊と北条泰時率いる東海道軍本隊が川を渡って墨俣に入り、結果、墨俣では戦闘が起こらず幕府軍が勝利することになった。
杭瀬川の戦い
幕府軍を迎え撃つため美濃木曽川に布陣した朝廷軍は、木曽川での各地の戦いに敗れ京都に向けて退却していきます。
しかし、その中で朝廷軍の山田重忠が単独で杭瀬川に再布陣、6月6日、幕府軍の庄忠家が弟・庄弘方、甥の庄弘季らと共に児玉党を率いて山田重忠と交戦、朝廷軍の山田重忠は十倍の兵力差の中、奮戦し激戦を繰り広げますが撤退を余儀なくされ、結果、美濃木曽川の戦いは幕府軍の勝利に終わり、7日、幕府軍は美濃垂井まで進軍する。
北陸戦線
市振の戦い
名越朝時率いる幕府軍の北陸道軍は5月30日、越後と越中の国境、市振に迫り、一方の朝廷軍は在地の武将である宮崎定範が市振に布陣、そして、この市振の戦いで幕府軍の北陸道軍は朝廷軍の定範を破ります。
そして定範の居城である宮崎城を落として越中を進軍することになりました。
砺波山の戦い
この砺波山は源平合戦の倶利伽羅峠の戦いの場所に当たり、6月3日、仁科盛遠、糟屋有久ら京都から派遣された朝廷軍が、越中と加賀の国境、砺波山に布陣して、市振の戦いに敗れた宮崎定範が朝廷軍の本隊と合流し、6月8日、幕府軍の北陸道軍は般若野のに入り、翌9日、砺波山で朝廷軍と幕府軍が激突します。
この砺波山の戦いは宮崎定範、仁科盛遠、糟屋有久らが戦死する激戦となりましたが、この後、名越朝時は北条義時から北陸道の確実な制圧を命じられたため、北陸道軍の入京は幕府軍本隊が京都を制圧し戦いが終わってからのことになりました。
京都近郊の戦い
瀬田川の戦い
幕府軍に押されている、後鳥羽上皇は自ら武装し、比叡山に入り協力を呼びかけますが拒否され、上皇は京都に戻ると西園寺公経の幽閉を解き公経を通して幕府との交渉を試みますが、これにも失敗し帰還し、また朝廷軍に再出陣を命じました。
6月12日、朝廷軍は京都防衛戦に向けて瀬田と宇治に出陣します。
山田重忠は瀬田に布陣しました。
幕府軍は北条時房が瀬田に布陣し瀬田の唐橋を挟んで朝廷軍と交戦し、重忠は幕府軍の熊谷直実の孫である熊谷直国を討ち取るため奮戦をします。
しかし、幕府軍の宇都宮頼綱の子、宇都宮頼業の奮戦により京都に撤退することになります。
こうして瀬田川の戦いに勝利した幕府軍は京都に軍を派遣して迫ることになります。
最後の攻防戦場
宇治川の戦い
北条泰時率いる幕府軍本隊は宇治に進軍を開始し、朝廷軍は藤原秀康と三浦胤義が本隊を率いて宇治に出陣し宇治川の橋を落とし布陣します。
6月12日、幕府軍先鋒の三浦義村と足利義氏が宇治橋を挟んで、佐々木広綱ら朝廷軍と戦闘を開始しまし、翌13日、泰時率いる幕府軍本隊が到着し豪雨で増水した宇治川を挟んで両軍が激突します。
この宇治川の戦いで幕府軍は足利義兼の子、桃井義助、伊達朝宗の子、伊佐為宗さらに庄忠家が戦死するなど激戦となり、しかし、ついに翌14日、朝廷軍の佐々木広綱の弟である幕府軍の佐々木信綱、芝田兼義らが浅瀬をみつけ宇治川を渡ることに成功します。
そして総大将である北条泰時も筏で渡河し、朝廷軍は幕府軍に渡河されると京都に撤退し、宇治川の戦いに勝利した幕府軍が入京を果たします。
そして六波羅に拠点を置きました。
承久の乱最後の戦い
東寺の戦い
この当時の戦いは、厳密には朝廷軍と幕府軍との戦いではなく朝廷軍残党と幕府軍との戦いです。
これは後鳥羽上皇が幕府に恭順を示したためです。
瀬田川の戦い、宇治川の戦いに敗れた藤原秀康、三浦胤義、山田重忠は京都での最後の一戦を行うべく御所に向かいますが、後鳥羽上皇は御所の門を閉ざして面会を拒絶してしまいます。
この後鳥羽上皇の裏切りに山田重忠は憤慨したと伝わり、憤慨その後、藤原秀康らは東寺を拠点として立てこもり幕府に抗戦の姿勢を示します。
一方、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を撤回し、代わりに藤原秀康らを謀臣として捕縛の院宣を出しました。
朝廷軍に参加した武将は、上皇の裏切りでたまったもんではなく、翌15日、三浦義村率いる幕府軍が東寺を包囲し、幕府軍に包囲された三浦胤義は、この時兄の義村と対面を果たしますが、兄・義村は胤義との戦闘を避け撤退しました。
その後、胤義は義村配下の軍に一戦を仕掛けると京都太秦まで落ち延び、この木嶋神社で子の兼義、胤連と共に自害しました。
また、山田重忠は奮戦したあと、京都嵯峨まで落ち延び般若寺で自害します。
重忠の子、重継は捕縛されて25日処刑される。
藤原秀康は一戦を仕掛けたのち、京都からの逃亡に成功しまが、奈良南部に潜伏していたが、10月14日に河内で捕縛され、弟の秀澄と共に京都で処刑されることになりました。
この戦いで朝廷軍と幕府軍との戦いは終わり、6月23日、北条泰時による勝利報告が鎌倉の北条義時に伝えられ、承久の乱は終結となり本当の武士政権となりました。
承久の乱後の始末
勝手のいい後鳥羽上皇の始末を、幕府は後鳥羽上皇を隠岐、順徳上皇を佐渡、土御門上皇を土佐、後鳥羽上皇の子雅成親王を但馬、頼仁親王を備前への流刑とし、さらに仲恭天皇を退位させ後鳥羽上皇系統ではない後堀河天皇を即位させました。
また、親幕府派の公卿・西園寺公経を登用して朝廷を主導させ、さらに六波羅探題を設置して朝廷の監視を強化させ、承久の乱により幕府の権力は朝廷を上回るものとなり、鎌倉幕府は後醍醐天皇の建武の新政まで続くことになりました。