建武2年(1335年)に岩村城主の遠山三郎が、遠山一族の総力を結集して菩提寺の大圓寺を建立した。
大圓寺は、建武2年(1335年)から戦国時代の末期の元亀3年(1572年)まで美濃国恵那郡(現・恵那市岩村町)に存在した臨済宗妙心寺の大寺院です。
それを武田信玄の家臣・秋山虎繁が岩村遠山氏の岩村城を攻撃した後、焼討ちして破壊したため滅亡した。
現在は大圓寺跡として恵那市の指定史跡になっていますが、恵那市はほったらかしです。
その歴史を大事にしてほしいです。
恵那市と合併したことを岩村の住民は後悔しています。
臨済宗妙心寺とは?
明覚寺大圓寺 は臨済宗妙心寺派の大寺で、遠山荘地頭、岩村城主遠山氏の菩提寺として南北朝時代の建武※2年(1335年)に臨済宗の高僧 峰翁祖一を迎えて、遠山一族の総力を結集して創建されたお寺である。
※建武(けんむ)は日本の元号、南朝方では元弘の後、延元の前で1334年1月29日〜1336年2月19日までの期間です。北朝方では正慶の後、暦応の前1334年1月29日〜1338年8月28日の期間です。この時代の天皇は南朝方は後醍醐天皇、北朝方は光明天皇。
大圓寺跡碑 高僧 峰翁祖一
戦国時代の末期の元亀3年(1572年)まで美濃国恵那郡に存在した。
峰翁祖一は妙興寺(愛知県一宮市)の一世でもあり、関市の大禅寺、吉祥寺など数々の寺を開創※1 している。
※1 開創とは:寺院を創設すること。寺院開創の創立者を開基、寺院の宗派のうえでの開創僧侶のことを開山という。
▲ひっそりと、祀ってある趾
大圓寺二世は玉林宗璨、三世は月菴宗光と後を継義、四世は宝林と思われるが詳しくは分からない、五世は進叟性勝で足利四代将軍 足利義持の発令した大圓寺住職の辞令が妙興寺(尾張一宮)の塔頭※3 の一つ、耕雲院に現存しています。
大圓寺は、やや衰微したこともあったが、岩村城主遠山景前が、天文三年(1534年)に礼をつくして、高僧明叔慶俊※2 を迎えて再興した。
明叔のあとは大本山妙心寺の管長職を五度つとめた他、惠林寺の住職にもなっている希菴玄蜜が住職になった。
希菴は快川国師とともに臨済の二大徳として天下に名声を馳せた僧であった。
※2 明叔慶俊は飛騨国を治めてた戦国大名三木直送頼の兄。
※3 塔頭とは:禅宗寺院で、祖師や門徒高僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建てた塔(多くは祖師や高僧の墓塔)や庵などの小院。門徒らによって立ち並ぶ塔の中でも首座に置かれたこと、あるいは、門徒らが塔のほとり(=「頭」)で守ったことから塔頭と呼ばれたなどの説があります。
塔中、塔院、寺中、院家とも。
やがて塔頭※3 に類する塔台を建立するようになった他宗派も現れたり、後に改宗や廃絶したもの塔が残ったりなど現存例は混然としています。
▲武田信玄像
希菴は信玄の要請により、岩村城を永禄7年(1564年)に武田信玄の母大井の方の13回忌法要は信玄の願いにより法要を行った。
妙心寺に戻った希菴に、遠山氏より大丸寺の住職の頼みが再来がきて、希菴はこれを受けて再び大圓寺の住職となった。
そこに信玄から恵林寺へ戻るように要請が何度もなんどもあったが希菴は拒否をした、これを恨んだ信玄は秋山虎繁信友に希菴の殺害と大圓寺の焼き討ちを命じた。
武田軍が元亀3年(1572年)秋山虎繁信友が率いる武田軍が、遠山氏の本拠地である岩村城を攻撃し、岩村城の戦いが行われた。
武田信玄家臣の秋山虎繁信友が岩村城の遠山氏を攻撃した時に大圓寺を焼き討ちにしたため焼失した。
※. 約15ヘクタールもの広い大敷地と常時100名を越す修行僧がいた寺は、武田勢に焼かれて、仏像や庭園などの貴重な文化財、遠山氏累代の墓や過去帳をはじめ、書画・絵画もろとも焼失し、歴史の幕をおろしてしまった。
周辺の地域の寺院も武田勢に焼かれている。現在は大圓寺跡として恵那市指定史跡となっています。
開城から約2週間後の11月26日、大圓寺にも武田軍が攻撃するという噂を聞いて身体の危機を感じた希菴は、共の者と寺から逃亡した。
これを知った信友は刺客3人を送って飯羽間川にかかる橋の上で全員を殺害した。
▲ここが希庵橋 ▲希庵塚の案内標識
半月も経たないうちに刺客の3人は気が狂って馬から落ちて命を落とした。
それだけではなく、その五ヶ月後に信玄がが死亡してる。
殺害された希庵たちは村人達によって近くに葬られ希案塚と呼ばれて今でも現存している。
(いわむら昔ばなし余話より引用)
近くに五平餅のユニークな味つけの創作五平餅(写真参考)を出してくれるお店がある「かんのん屋」(0573)43−3556 がある。
↑「五平餅」仲良し夫婦が握る五平餅 コヒーつきで500円
大圓寺と御参学
大圓寺は永保寺、愚渓寺と並んで、美濃の三名刹と言われるくらい、有名なお寺でした。
明覚寺大圓寺は沢山の坊さんが修行のため集まりました。 そうなると、野菜などをお寺へ納めるために村人の数も増え、日用品などを売る商人も大勢になり、村の人口は増えるばかりでした。
希菴和尚さまは、そいう村の様子をみて、若い人たちや、子供達に呼びかけて、寺子屋を作られました。ここで勉強することは、将来社会でもっとも必要な、読む力、書く力、計算をする力からの三つでした。
昼は子供達が、夜は青年の男女が、この三つの学問を勉強して、やがて大人になってから、それぞれ社会に役立つ立派な人になったということです。
それで、今も寺子屋のあった処を、「御参学」と言ってます。
その近くには不動明王を祀り、平地には天神様を祀って、寺子屋に学ぶ人たちに、勉強の上達を祈るようにさせたと言います。 今でも学問の神様である天神様を祀ってあったところを「天神だいら」と言ってます。
極楽寺
岩村町へ行くには、中央線で恵那駅で下車、明知線に乗り換えて明知行きに乗って「極楽」駅の次の駅が「岩村」駅のアクセスです。
飯羽間分根の西側丘陵に、極楽寺という大きな寺がありました。
あまり古いので記録が何一つ残っていませんが、出土した遺物より推察して平安末期から室町時代の中頃まで続いた浄土系の民衆寺でありました。
極楽寺をクリックしてもらうと詳しく書いてあるページに行きます。
▲現在は駅名で残している。
境内は分根の新建部落より山上部落に至る広さで、相当繁盛した寺です。
古い瀬戸系や常滑系の骨董と、自然石にお経の字を一面に書いた軽石が沢山出土しています。
文献には全然出てこない幻の大寺ですした。今では十数基のの五輪塔が静かに並んで残っているだけです。
伝説では大圓寺が焼き打ちになった時、極楽寺の修行僧が辰巳の井戸に釣鐘を沈めて隠したと伝えられています。