美濃国岩村城の女城主・おつやの方は織田信長の妹お市の方と共に絶世の美女として生まれが、年下の叔母さんである。
織田信長の叔母さんであるのお直の方またはおつやの方は、愛西市の勝幡城で(信長の生まれた城)で、信長の祖父織田信定(1538年没)の末娘として誕生しました。
要するに信長の父信秀の妹で兄妹です。
それも信長より年下の叔母さんである。
▲おつやの方と信長が誕生した勝幡城
ハッキリとした年の記録は残っていません。
織田信長は1534年生まれなので信長の方が年上と考えられています。
▲信長・お直の方が生まれた勝幡城趾
おつやの方の最初の嫁ぎ先は美濃斎藤龍興の重臣で、日比野下野守清実(岐阜安八城城主)だが1561年(永禄4年)に戦死。
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何歳で嫁いたかわかりませんが、18歳の時に夫をなくしています。
2度目は、信長に使える武将でした。
●織田家の家系図
岐阜に戻ったお直(おつや)の方は1562年甲斐の武田に対する前線基地ともなる、美濃国岩村城遠山景任(遠山景任は戦国時代の武将・大名。岩村遠山城氏当主。)へ3度目の政略結婚のため嫁いで行った。
(※当時は織田と武田は同盟関係出会った)
※(遠山景任は戦国時代の武将のURLをクリックしてください。歴代の岩村城主が記載してあります。また、おつやの方の記事も書いてあります。)
※上記のお直(おつや)をクリックしてください。おつやの方の記事が書いてあります。
※上記の岩村遠山城主をクリックすると岩村城の地図と登城口から頂上までの案内が書いてあります。
1572年(元亀3年)武田信玄の命を受け秋山信友が岩村に侵攻、上村合戦 ※1となり景任は戦死した。
その時におつやの方は岐阜へ戻れば戻れたでしょうが、岩村に馴染み親しんだ岩村城に残ることとしました。
遠山景任には子供がいないまま1572年(元亀3年5月)に、信長の五男御坊丸(後の織田勝長)を家督相続人となる養子として迎える。
御坊丸は幼く、そのためお直の方(おつやの方)が当主の座を引き継ぎ女城主となった。
(女城主といえば2017年の大河ドラマから連想する井伊直虎を思い浮かべますが、女城主は井伊直虎だけではありません。城を守るため武田軍と戦い武田軍の重臣に身を捧げ、信長には無残にも岐阜で磔刑された女城主おつやの方、戦国の世に無情にも人生をもて遊ばれた悲劇と言ってしまえばそれまでだが、波乱の人生だったような気がします。)
女城主として暫くは平穏な日々を過ごしていましたが、1572年10月武田信玄の西上作戦が開始した。
信玄はそれまで各地に上洛する旨を喧伝していたが、実際の行動は山県昌景と秋山虎繁(俗に信友)の別働隊2,500余騎を三河に向かわせ、自身も遠江に出陣するという、徳川家康の領土を奪取することを主目的であった。
その途中12月22日三方ヶ原の戦いが起こり信玄は家康を破る。
▲武田信玄 ▲徳川家康
上村合戦※1後、再び秋山虎繁が岩村城を侵略するために攻めて来ました。
おつやの方は領民たちと共に長い籠城を覚悟して戦い、信長の援軍を待ちながら3ヶ月の間立て籠もりました。
その間も信長に使者を送り、また敵の情報を得るために乱波を放ったりと城主として見事な手腕を振るったそうです。
当時の信長は長島の一向一揆などで道を阻まれ、なかなか岩村 までは援軍を出せませんでした。
▲難攻不落の岩村城趾
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岩村城は難攻不落そのものでした。
その状況を知った武田軍の秋山信友は、和議を申し入れてきたのですが、その内容は「おつやの方」にとってはとても受け入れないものでした。
開城すれば御坊丸や領民、城兵の命を守る、その代わり秋山信友の妻になれというものでした。
※上記の岩村城は難攻不落をクリックすると、岩村城の案内が出てきます。
おつやの方は武田の武将との結婚は信長を裏切るということになり、城も取られることになることを。
苦渋の決断で開城を条件として城主御坊丸の命を助けること、領民・城兵の命を守るのが、女城主の絶対守らなければならない条件だった。
おつやの方は信玄の動きに呼応し、同年11月14日、岩村城は武田方のものになり、信玄は下条信氏※2を送り込んだ『当代記』。
信玄はこの女城主(おつやの方)の裏切りによって作戦を変更し、三河から東美濃へ入って信長を攻める作戦をとった『三河物語』。
以前に「おつやの方」と敵将「秋山信友」は、信長の子奇妙丸と信玄の子お松の方の婚姻の使者として岩村城で顔を合わせていて、当時は景任の妻として会っているだけで、それ以上でもなくそれ以下でもない顔合わせであった。
1573年2月に岩村城を開城した。
おつやの方は開城したことで、信長を裏切って、武田方になったのです。
1573年(元亀4年)3月6日信玄は美濃に秋山虎繁を送り、岩村城城主とした。
この時におつやの方と秋山虎繁との婚姻が行われた。
御坊丸は甲斐に送られた。
同年5月13日武田信玄病死したため、武田軍は撤退。
その2年後の1575年5月の長篠の戦いで武田軍が織田軍に敗北するまでの間、秋山信友とおつやの方は岩村の領民のため、岩村を守り、城の普請を進め、織田信長の侵攻に備えていました。
織田信長軍は1575年(天正3年)の長篠の戦いで武田軍を敗ると、織田信忠らが岩村城を包囲。
武田勝頼は岩村城を援護するべき出陣したが、勝頼が着く前の11月21日、岩村城は落とされた1575年(天正3年)。
▲有名な「長篠の戦い」の長篠城趾
信長は秋山虎繁らを赦免するとみせかけ、礼に来たところを捕らえ、長良川近くで磔刑にした。
その理由は、長篠城の奥平信昌が徳川家康に寝返った際、武田勝頼が奥平信昌の妻を磔にしたので、その報復だといううことだった『甲陽軍艦』。
おつやの方も信長に捕らえられて逆さ磔で処刑された。
一説には信長が裏切られた鬱憤をを晴らすために自ら斬ったとも言われる『当代記』。
※1 川上合戦:永禄11年(1568年)徳川家の人質として松平源三郎(松平康俊)が武田家に送られたが、元亀元年(1570年)、松平源三郎が甲州を脱出した。
松平源三郎は秋山虎繁の預かりであったため、元亀3年(1572年)12月に秋山虎繁は武田軍2500余騎を率いて東美濃の遠山氏の一部を通って徳川の領地の奥三河へ向かおうとした。
また遠山氏は以前は武田氏に臣従(臣下として主君につき従うこと)していたが、この頃は織田信長の叔母のおつやの方が岩村城主となっており武田軍とは敵対関係にあった。
この時武田軍は西上作戦中であり、三河国には山県昌景が、飛騨国には木曽氏の山村良利が、遠江国には武田信玄率いる本体が侵攻を行なっていた。
※2 下条信氏:戦国武将。下条は下條ともかく、父は下条時氏。信濃小笠原氏、のちの甲斐武田氏の家臣であり、武田晴信(信玄)義兄弟、信濃吉岡城(伊那城)の主。
兵庫助、伊豆守。正室は武田信虎の娘。
子供は信正、頼安。
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