岩村藩になったのは徳川時代からです。
岩村藩は徳川家康の親戚の大給松平の六代目が初代の岩村藩主の殿様・松平家乗がなりました。
※ここに松平家乗の父母の記事があります。興味ある方は上記の松平家乗をクリックしてください。
▲藩主邸イラスト
▲復元された太鼓櫓、春には鶯の囀り声が聞こえます。
岩村城に行くには、明知線「岩村」駅を下車すると東方(目の前が東)に鬱蒼と茂る山、その山が城山です。
▲明知線「岩村」駅
▲城山方面を見る
別名・霧ヶ城、名の如く霧の深い城山です。
少々勾配のある城下町を上って行くと城山の麓にたどり着く、駅の近辺が標高500m途中で標高520mぐらい、藩主邸跡が540ぐらい藩主邸後には頂上が標高717mです。
戦国の世は、武田信玄・織田信長の城取り合戦・その後豊臣秀吉の家臣・田丸直昌が城主でしたが関ヶ原の戦いが起きた。
※上記の田丸直昌男の中の男の記事があります。興味のある方は読んでください。
秀吉が亡くなって家康と石田三成で天下分け目の関ヶ原の戦いで勝利を勝ち取った家康が天下泰平を願った。
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そんな岩村城主の歴史の案内
この岩村城は、歴史が古く、今大河ドラマでやっている鎌倉時代に加藤景廉が頼朝から守護・地頭を任された、この地・遠山荘という所に荘園をもうけました。
それが岩村城の始まりです。
景廉は源頼朝の重臣のため鎌倉を離れることができず、嫡男・景朝に城を築かせ名を遠山景朝に改名させ、明智遠山・苗木遠山、岩村の前線城として飯羽間城を造りました。
承久の乱には、北条泰時の軍に従って西上し、後鳥羽上皇の官軍を破り一条宗相・藤原信能を岩村に連れて行き相原で斬首した。
現在・藤原信能は巌邨神社の祭神として祀ってあり(毎年8月第一土日お祭りがあります)。
▲巌邨神社
景朝の子孫は400年にわたり遠山荘を支配した。
遠山荘は恵那全域と伊那の一郡に及び、子孫は繁栄して七遠山の支城を築いた、戦国時代には十八城があったとされる。
太平記伝によれば、南北朝時代には遠山三郎が岩村城を守っていたことが記されている。
また遠山来由記にも遠山景廣が城の大修理をしたと記されている。
しかし、中世の城は土塁であって、石垣や建造物「は天正時代以後に造られた。
遠山氏最後の城主・遠山景任は織田信長の叔母・おつやの方を娶り幸せに暮らしていましたが、甲斐の武田軍が攻めてきて落城、武田の家臣・秋山晴近と結婚、その後織田信長に攻められ落城、長良川で逆さ磔される。
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戦国時代の遠山・武田・織田・徳川・今川
天正元年(1573年)に武田信玄の一将・秋山晴近は信州伊那の郡代であったが根羽、上村口より岩村に来襲し攻め落として開城させて、遠山景任夫人を娶って城主になる。
ここに長きに渡って遠山氏は終わった。
天正3年に至り武田勝頼が長篠の戦いに敗れると、信長は嫡男・織田信忠をつかわして岩村城を攻め城を奪還して秋山夫妻を殺害して、川尻慎吉を城主にした。
※上記の織田信忠が人を張ったとされる大将陣の記事があります、興味ある方はクリックして読んでください。
※上記の川尻慎吉をクリックして遠山時代にあった城下町を現在の城下町に移転した記事があります、興味ある方は読んでくださ。
天正10年信長は甲信地方を侵し、武田勝頼を天目山で滅ぼし川尻慎吉を甲府に移し、岩村城は森蘭丸を城主にしたが、蘭丸は間もなく本能寺に於いて信長に殉じたので、その兄長一が城主さらに弟・森忠政が継いだ。
この間岩村城は、森氏の臣・各務兵庫が城代として十数年間政務をとった。
岩村城がはじめて近代的構築をなされたのは、この各務兵庫によって行われた。所伝によるとあの夥しい城垣の石材は阿木川から農民の背よって運ばれたという。
戦法の変遷※1に伴って信長の安土築城以後全国に築城が行われた、慶長4年田丸直昌が岩村へきたが、翌年関ヶ原の戦いで西方に味方して敗れ去った。
※1.変遷(へんせん)とは、時の流れと共に移り変わること。▲
江戸時代の太平の世を願った家康
慶長6年(1601年)に徳川家康は、大給六代・松平家乗を岩村城主として二万石を與える。
家康は天下泰平を念じ地方に大小名を整理して一領主一城の制度を定めて、他の砦を破砕し増築を厳禁したので、さしもの築城競争は後をたち、元和堰武※2の治世にならった。
※2.元和堰武(げんなえんぶ)とは、慶長20年(1615年)5月の大坂夏の陣において、江戸幕府が大阪城主豊臣家(羽柴宗家)を攻め滅ぼしたことにより、応仁の乱(東国においては、それ以前の享徳の乱)以来、150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了したことを指す。
同年7月、江戸幕府は朝廷に元号を慶長から元和と改めさせたことで、天下の平定が完了したことを広く宣言したとみられる。
▲藩主邸跡に復元された太鼓櫓
岩村城もその後の変化はなくなった。
初代・岩村藩主・松平家乗は、その後、城麓に藩主邸を建て、ここを中心にして城下の経営を計った。
城下町の経営は経済と防衛との2つの目的をもって考慮され町は特殊の発達をとげた。
防備の面からは武士街と町人街を区別し、岩村川の北高地の藩主邸を置き、その周囲に藩主宅を配置し、新市場、岩村川の端、その他要所には木戸、または土手をおいて監視し、町人街には特定商人を木戸内に住まわせて領下の商業を営ませた。
木戸には武士や商人で交代して番人となり厳重に監視した。
寛永15年(1638年)2代目・松平乗寿は岩村藩から浜松に移り、その後は、三河伊保より丹羽氏信が入封して城主となったが、丹羽氏も5代にしてお家騒動のため元禄15年に越後に転封になった。
変わって前城主・松平乗寿の孫・松平乗紀が信州小諸より入封して城主となった、城郭の改築はなかったようであるが、出丸はこの後に出来たようである。
石垣の修理は幕府に申請して時々行われた。
この常時は太平で藩内は町の経営が主であって、城内は番兵が交代で監視していた程度であって城閣は形式的であった。
最後の城主。松平乗命は明治維新を迎え廃藩置県となり東京へ移ったため岩村城も事実上所有者を失い、明治6年建物は全部払下げとなり順次取り壊された。
また、藩主邸は明治14年に失火により焼失した。