遠山金さんって、あの金さん?
そうあのっドラマでやってる金さんです。
その、金さんの先祖は明知城主、もっと言えば岩村城の祖・加藤景廉です。
桜吹雪の刺青をしてお白洲の場面になって、裃を脱いで「これが目に入らないか」というドラマ等で見る場面の通称・遠山金四郎です。
▲イメージ
もちろん金さんは当地・明知城には来ていません。
金さんが活躍したのは江戸時代の11代・徳川家斉・12代・徳川家慶の徳川将軍の時代です。
また、11代将軍の徳川家斉の孫娘・釣姫が岩村城最後の城主・松平乗命の正室にもなっています。
※上記の孫娘・釣姫をクリックすると詳しい記事があります。また岩村町は大奥の老女になった桃光院がこの時代に勤めていました。興味のある方は読んでください。
創築者は岩村城主・景朝の次男
岩村遠山の遠山景朝の子・遠山景重が明知遠山氏の始祖となった。
宝治元年(1247年)に遠山三郎兵衛景重が明知城を築き代々守護をした。
▲今回は明知城を取り上げました。
その後、景長ー朝廉ー景忠ー景房ー頼景ー景基ー景次ー景勝ー景成(兄)ー直景(弟)ー景行と続いたという(諸説ある)。
恵那郡は遠山氏が支配、岩村城を本拠とし一族重臣を郡内各地に配して「遠山七家衆」を称したりしたが、中でも岩村を本家とした苗木と明知の三家は「遠山三家衆」と尊称されていた。
明知城はその遠山氏歴代の居城であった。
遠山氏の祖、加藤景廉の孫・遠山景重が、宝治元年(1247年)、初めて明知城を築いたとされているが、おそらく居館を構えたことをいうのであろう。
承久の乱(1221年)当時、遠山氏は鎌倉幕府方に従い、南北朝争乱期に土岐氏と共に足利尊氏(北朝方)の麾下となり、各地に転戦したりして明知城が戦略的に重要になった時代で山城が築かれたのもこの頃と思われる。
応仁の乱(1467年)には、東濃全域に信濃勢の侵略があり城の防備は、さらに強化されたと考えられるが、明知城の激動は戦国期に入ってからである。
初代・景朝の12代・遠山景成の子景行は信長に
元亀3年(1572年)武田氏の東美濃侵略がはじまり、上村合戦において小里光忠(小里城主)らと共に討死し東美濃勢は敗れた。
その後、武田勢は岩村城を手中に納め遠山諸城を占領した。
明知城主・遠山利景も降り、武田方武将が城番となって入城、東美濃・三河信仰の拠点すべく城の大改築を行った。
※上記の遠山利景は城主になる前は、岩村地内にあった飯高観音の僧侶でした。詳しい記事が書いてあります。興味ある方は読んで下さい。こまた、飯高観音の記事もあります。
信長の反撃
天正3年(1575年)長篠合戦に大勝した信長は、東美濃に侵攻した武田勢を一掃するため、織田信忠を総大将に大軍を率いて東美濃に出陣、武田勢に占領された諸城を次々と奪回し岩村城も攻略した。
※上記の織田信忠をクリックして頂くと岩村城奪還した記事があります。興味ある方は読んでください。
※また、織田信忠が岩村城奪還のために陣を張った丘(現・大将陣という)記事があります。
武田方の陣営になっていた明知城も攻略刺され、威服※1させられていた遠山利景は逃れて、徳川家康の下に身を寄せた。
※1.威服(いふく)とは、脅して従わせること。
天正12年(1584年)小牧・長久手合戦のとき、明知城は金山城主・森長可(ながよし)の支配下にあったので、家康は秀吉方の後方撹乱(かくらん)を狙い、遠山利景をを支援して故城明知の奪還を果たされた。
しかし、秀吉・信雄の和議が成り明知城は再び森氏の手中に帰した。
遠山利景は仕方なく家康の庇護のもと、時節の到来を待つことになった。
明知城を手中に入れる遠山利景
慶長5年(1600年)森長可が信濃海津城(現・長野市松代町)の城主に転封となると、あとに田丸直昌が岩村城主だったので、田丸氏は西軍に組みし、明知城には田丸の家臣・原土佐守がいたので、遠山利景は家康の命により、子・方影と共に明知城を攻め取ることが出来た。
遠山利景は明知城を与えられ、実に二十五年ぶりに旧領を回復したのである。
元和元年(1615年)一国一城令に基づき明知城は廃城となり、山麓大手屋敷を陣屋に改築して領内の政治に当たらせ、遠山氏は江戸屋敷に移り、旗本八千騎の上席を占め石高六千五三一を与えられ重職に就いた。
あの有名な北町奉行の遠山の金さんこと、遠山左衛門尉景元は、明知遠山分家筋六代目に当たる人物です。
明知城の縄張
標高528mで通称白鷹城の別称がある明知城です。
南北街道と中馬街道の交差する交通の要地で、美濃・三河・信濃の国境に近く、ことに奥三河に接した戦略的に重要な位置にあった明知城です。
城山の西南に明知盆地が展け、その先に鶴岡山が相対し、大手筋に当たる西南側は明智川が山麓を大きく彎曲して天然の濠りをなし、搦手筋に当たる東面は東三河国境に続く遠山が連山が多い地勢を形成し、西方明智川を挟む対岸、吉田川の落ち合うところには、俗に「千畳敷」と称する支城を構えた要害城である。
明知城は自然の山の地勢を利用した掻き揚げ城で、縄張りが複雑で特異な構えとなっている。
▲明知城
主郭部は一の曲輪(1)、二の曲輪(2)、三の曲輪(3)、台所曲輪(4)が配され、一の曲輪と二の曲輪の帯曲輪及び腰曲輪が付属し、主郭部の虎口(こぐち)は枡形の先駆的縄張で厳重な構えになっている。
主郭各曲輪の切岸は、掻き揚げにより全て垂直に近い絶壁をなし、その底には武者走りが巡らされ、外周に竪堀で仕切られた堡塁が十五ヶ所所放射状に並列する様は、美濃の城には類例が少なく、まさに圧観である。
城山の北西の尾崎の大手口から上がると途中右側に土塁が続き、左手には数メートルの高さをもつ二つの曲輪(5、北大手曲輪)が並び、右側の深い竪堀を隔てて六箇の小曲輪群からなる南大手曲輪(6)が配されている。
北大手曲輪が尽きるあたりから道幅が広くなり、S字形に屈折して右側南から大きく空壕(下部が竪堀になっている)が入り込み、大手からの直進を阻塞し、左側にも竪堀があって通路は幅広い土橋状をなし、主郭部虎口前の縄張りは絶妙である。
一の曲輪北方が搦手筋で、堡塁の北に搦手曲輪(7)がある。
城主邸館は大手筋尾根の南側、主郭郡山麓の洞にあり、高操で水利に恵まれたところに位置し、付近に大手口番所、馬場・侍屋敷があり、城鎮護の八王子神社・菩提所龍護寺などがあります。
城主屋敷は江戸時代に、なって明知陣屋となって、役所・倉庫・役人屋敷に改造された。