美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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頼家の乳母父になった比企能員の貪欲までの権力願望で北条氏と対立

投稿日:2022年7月9日 更新日:

   現在では考えもしない乳母集団・・・

当時は高貴な母親が子供に乳を飲ませる風習がなかったらしい、まして良質な代用乳が得られない時代には乳児の成育に直接悪影響を及ぼし、最悪の場合は命にも関わった。

 

 

乳を与えるだけが乳母の仕事ではない、教育係もその一つ夫もその任にあった。

 

 

例えば、頼朝の場合には乳母は比企尼の他に小山政光の妻・寒河尼、山内俊通の妻・山内尼、三善康信の伯母がいた。

 

 

その中の一人の比企尼は頼朝が伊豆国の蛭ヶ島に流されたのちにも、20年という長い月日頼朝の生活のため援助をしてる。

 

 

そういった縁から頼朝は鎌倉に都を築いたときには、比企尼に立派な屋敷を与えている。

 

 

現在の比企ヶ谷で、『新編相模国風土記稿』は比企ヶ谷の地名の起こりだと明記しています。

 

 

そのため皇族・王族・貴族・武家・あるいは豊かな家の場合は、母親に代わってお乳と教育を与える乳母を雇った。

 

 

それが頼朝の死後、比企氏と北条氏の権力闘争に始まっていく。

 

 

 

頼家の乳母父・比企能員は権力に貪欲になる

鎌倉時代前期の鎌倉幕府第二代将軍いわゆる鎌倉殿・頼家である。
父・頼朝の死によって18歳で家督を相続した。

さらに3年半後に征夷大将軍となる。

 

 

頼家は、寿永元年(1182年)8月12日、源頼朝の嫡男として鎌倉比企ヶ谷の比企能員の屋敷で生まれる。

 

 

幼名は万寿、母は北条時政の娘・政子、頼朝36歳の時でした。

鎌倉入り3年目にして待望の後継者男子として誕生した嫡男・万寿。

 

 

頼朝は安産祈願のため鶴岡八幡宮大路の整備を行い、有力御家人たちが土や石を運んで段葛を造り、頼家の乳母父には比企の養子・比企能員、乳母には頼朝の乳母の娘・比企尼の次女・河越重頼室が呼ばれ、梶原景時の妻の他、比企尼の三女・平賀義信室、能員の妻など、主に比企氏の一族から選ばれた。

※1.段葛(だんかずら)とは、葛石を積んで一段高くした道。鎌倉の鶴岡八幡宮の参道の中央に、さらに一段高く造られた道をいう。

 

 

頼家の側近は、比企宗員、比企時員、和田朝盛、小笠原長経、北条時房、中野能成、源性、義印、紀行景、平知康などであり、政治的後見人は梶原景時と比企能員、いずれも頼朝によって指名された面々です。

 

 

これにより比企氏は権力を持つ、面白くないのは北条氏だ、頼朝が伊豆へ流されてきたときから頼朝の面倒を見てきた自負がある。

 

 

それを後から来た比企氏に権力を握られることが許せなかった。
弟(実朝)の乳母を時政の娘がなっても、頼家の子が将軍なっていくことになる。

 

 

 

頼家にそのまま鎌倉殿をやられると北条がない

頼家の子は・一幡・公暁・栄実・禅暁の誰かが跡を継ぐ事になる竹御所(女)と、そうなってくると千幡(実朝)の目が無い。

 

 

一幡の母は若狭局(比企氏の娘・妾)、公暁は辻殿(正室)となってる。

※上記の辻殿をクリックしてもらうと頼家の正室・辻殿の関連記事があります。興味のある方は読んでください。

 

 

これをなんとかしないと北条氏の目がないと時政は、そう思ったに違いない。

 

 

頼家・実朝も時政にとっては可愛い孫だけど、権力が欲しい北条氏にとっては・・・比企氏憎しとなる。
だから比企氏を落とす様子を伺っていたに違いない。

 

 

 

実朝の乳母は政子の妹

建久3年(1192年)8月9日千幡として誕生する。
兄・頼家とは約10歳違う。

 

 

乳母に選ばれたのは、北条時政の娘で、御台所・政子の妹・阿波局、乳母父は頼朝の異母弟の阿野全成(源頼朝の異母弟)。

 

 

乳母=教育係という役、なぜ若君に献身的に尽くすのか?
というと、これには非常に深い理由がある、それは乳母が育ててきた若君が成長して、将軍になったら一族が側近として大きな権力を持つことができるからです。

 

 

 

北条時政・りくに踊らされ牙をむく

頼朝生前の時は忠臣だった時政が、正治元年(1199年)正月13日頼朝51歳の生涯を終える。

 

 

嫡男・万寿(頼家)が家督を継ぐ、これで安泰ということになるのだが、比企氏がいるため北条氏の方はそういかない。

 

 

これによって、比企氏の方は頼家の側近として勢いを増すこととなり、北条氏は、頼家を廃して実朝を将軍の座に据えないと北条氏の目が出ない。

 

 

そう思ってた矢先思わぬ事態が、建仁3年(1203年)頼家が重病になったしまったため、跡を6歳の長男・一幡が継ぎ、日本国総守護と関東28ヶ国の総地頭となり、12歳の弟・千幡(実朝)には関西38ヶ国の総地頭を譲ると発表された。

 

 

そのぐらい頼家は頭が良く平等に分け与えようとしてた。
これに異を唱え反対した比企能員は、猛反発して千幡と北条氏討伐企てた。

これが事の始まりとなっていった。

 

 

「病床の頼家と比企能員によるヒソヒソ話を御台所の正子が聞いてしまった。

 

 

何をというと北条氏討伐の密儀を話ししていたが、たまたま障子の影で立ち聞きしまった政子が、父・時政に報告し先手を打って比企能員を自邸に誘い出して暗殺してる。

 

 

同時に比企邸を攻め比企一族を滅ぼしたが一幡は取り逃している。
いわゆる比企氏の乱である。

 

 

やがて頼家は回復し、これを聞いて激怒して太刀を手に立ち上がったが、母・政子がこれを押さえ付け、修善寺に押し込めてしまった。

 

 

11月になって一幡は捕らえられ、北条義時の手勢に刺し殺された。
頼家は伊豆国修善寺に護送され、翌年の元久元年(1204年)7月18日、北条氏の手兵によって殺害される。

 

 

 

北条時政はやっと目の上のコブを取った

実朝は12歳で征夷大将軍に就く、政治は執権を務める北条氏が主に執った。

 

 

元久元年(1204年)12月、京より後鳥羽の寵臣・坊門信清の娘であり、後鳥羽上皇の従妹に当たる信子を正室に迎えるが、若く子はいなかった。

 

 

実朝が成長するに連れて、次第に政治に関与を深めてきた。

官位の昇進も早く、武士として初めて右大臣に任じられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で、兄の子・公暁に暗殺される。
27歳であった。

 

 

実朝は歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入選し、小倉百人一首にも選ばれている。

家集として『金槐和歌集』がある。
小倉百人一首では鎌倉右大臣とされている。

 

 

 

まとめ

鎌倉幕府は頼朝が亡くなってからは権力闘争で血を血で洗う戦い。

実朝も仕組まれた暗殺ではなかったと思う。

 

 

普段は将軍には護衛が何人も付いていなけれがならないのに、暗殺されるとは不思議でならない。

それに暗殺をした甥の公暁も殺されてしまう。

 

 

尋問も何もなく即殺害されてしまう。
実は実朝の異母兄弟・亀王丸(貞暁)がいるけど、権力闘争ばかりしている鎌倉幕府が嫌になり辞退している。

 

 

亀王丸とは、頼朝の愛妾・大進局の子です。

※上記の亀王丸をクリックしてもらうと関連記事があります。

 

 

 

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