美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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松平元康(家康)大高城から逃れて必死でたどり着いた大樹寺

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   主君・今川義元が尾張国の織田信長に討たれ、残党狩で信長軍に追われた元康軍は勇み岡崎城へ帰還する前に安祥松平氏の菩提寺である・大樹寺へと足を向けた。

では大樹寺とは誰が建立した菩提寺なのか?

 

 

元康は慎重に行動するためばかりではなく、歴代の墓所前で自刃(自害)しようという説明があるけど、本当に自刃しようとしたとは小生は思わない。

 

 

家康が自刃するなら家臣共達も自刃しなければならなく折角人質生活から逃れて目の前に松平の岡崎城があるのに本気で自害をする気はないはずであると小生は思う。

 

 

確かに大樹寺松平氏菩提寺、歴代の当主の墓や位牌が安置されている。

正式には成道山松安院大樹寺と称する寺である。

       ▲大樹寺本堂

 

大樹寺は松平親忠が創建

松平親忠は額田郡鴨田郷(現・岡崎市鴨田町)を根拠地としていたが、長享2年(1488年)か長亨3年(1488年)頃に、父・松平信光(松平家3代)が死去したため家督を継いだが、三男なので本当に継いだかどうかハッキリしてない。

 

 

Wikipediaで見ると親忠は、生誕:永享3年(1431年)又は永享10年(1438年)、死去:文亀元年8月10日なので70歳か63歳でこの世を去っています。

 

 

始祖松平親氏は生誕・死去不詳とされていていますが、地元松平町(豊田市)の伝承では、明徳4年(1393年)頃没したされており、平成5年(1997年)に親氏の没後600年を記念した、豊田市によって「親氏公600年祭」行われていますから大体合っていることでしょう。

 

 

最初は親忠は、出家して西忠と号したから跡目を継げるはずもない。

『三河物語』には、父の信光長男・名は不詳に惣領を譲ったとあり、親忠は分家的な存在に過ぎなかった、親忠が跡を継いだということは何かがあった。

 

 

だがのちに安祥松平氏から松平清康・家康らが本家を簒奪※1したため、親忠が4代当主となっておます。

※ⅰ.簒奪(さんだつ)とは、本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取すること。

あるいは継承資格の優先順位の低い者が、より高い君主の地位を奪取されること。

ないしそれを批判的に表現した語。本来その地位につくべきでない人物が武力や政治的圧力で君主の地位を譲ることを強要するという意味合いが含まれる。

        ▲家康の系図

 

 

初代の始祖・松平親氏

松平家康は徳川家康に改名するが、もともと初代の始祖・松平親氏は上野国徳川郷(現・群馬県太田市)に誕生した人物で、それが時宗の僧侶になっていて「徳阿弥」と号し諸国を流浪して生活をしてた人間が、同じ素浪人の石川孫三郎と共に、三河国加茂郡松平郷に流れ着いき、在原氏※2あるいは賀茂氏の血を引く同地の領主・松平信重(太郎左衛門少将)食客※3▲となった。

※2.存原とは、在原を氏の名とする氏族。平城天皇皇子の阿保親王・高岳親王が臣籍降下したことが興る皇別氏族(賜姓皇族)。▲

※3.食客とは、自分の家に客分としてかかえておく。▲

 

 

松平郷の領主・松平信重「徳阿弥」の和歌に通じた教養と武勇を評価して娘の養子にした。

※上記の徳阿弥をクリックしてもらうと家康の先祖・松平親氏の記事があります。興味ある方は読んでください。

 

 

「徳阿弥」は還俗して松平太郎左衛門尉親氏と名乗ったのが、家康の先祖なのだ、だから、どこまで松平という名を信用していいのかわからない。

がでも、どうでもいいことである。

 

 

家康が天下を取って征夷大将軍といって、あたかも源氏と関係があったとは思えない、朝廷に何らかの働きをしたと思う。

勝てば官軍ですよ。

 

 

今の世の中でもそれらしいことが起きてるじゃ無いですか?

徳川家康は三河松平氏の流れを汲むが、三河松平氏の歴史は不明な点が多く、その史実を明らかにし難い面がある。

つまり、松平一族は、謎の一族といえよう。

 

 

以下、謎多き三河松平氏の流れを確認するが、特に断らない限り、『三河物語』、『武徳大成記』、『徳川正統記』、『徳川記』、『尊系略』などの資料を参考にしてます。

 

 

松平氏は新田源氏世良田氏の流れを汲み、新田義重の四男・義季が本拠とした新田荘徳川(群馬県太田市)にちなみ、得川を称したのが始まりだというが、最初から親氏が名乗らなんだのか。

 

 

松平氏の始祖は親氏(有親の子)といい、上野国徳川郷(群馬県太田市)に誕生した。

 

 

やがて、親氏は流浪の旅へと出ると、時宗の僧侶になって「徳阿弥」と号した。

 

 

その後、三河国松平郷(愛知県豊田市)松平左衛門尉の家に婿入りしたのである。

これが、松平姓を名乗った根拠である。

 

 

親氏は武略に優れ、慈悲深かったので、徐々に勢力を拡大していった。しかし、諸書によって記述が異なっているので、注意が必要である。

 

 

応仁元年(1467年)8月、第一次井田野合戦で品野(現・瀬戸市品野町)や伊保(現・豊田市保見町)の軍勢を破る。

 

 

親忠は戦死者を弔うため、現在の岡崎市鴨田町字向山の地に千人塚を築いた。

 

 

文明2年(1470年)、松平氏の氏神として社(やしろ)を伊賀国より現在の岡崎市伊賀町の地に移した。

これが伊賀八幡宮の始まりとされる。

 

 

文明7年(1475年)になって、千人塚が振動し、近辺には悪病が流行するようになった。

 

 

この亡霊を弔うために親忠は塚のほとりに念仏堂を建てた(現在の鴨田町字向山の西光寺)

 

 

そして鴨田郷の館跡に、松平氏菩提寺である大樹寺を創建した。

 

 

文明9年(1477年)、大恩寺(愛知県豊川市御津町御津山山麓)の開基として同寺を中興する。

 

 

長享元年(1487年)、麻生城の天野景孝を滅ぼし、九男・乗清を分立して成立した。

 

 

滝脇松平家を配置した。

明応2年(1493年)第二次井田野合戦で、上野城主・阿部氏、寺部城主・鈴木氏、挙母城主・中条氏、伊保城主・三宅氏、八草城主・那須氏らを破り武名を挙げた。

 

 

明応5年(1496年)、三男・長親に家督を譲り、隠居

また子を分立して大給松平家、滝脇松平家などを成立させたほか、第四子の存牛は出家し、信光明寺住持などを経て、京都の浄土宗・総本山知恩院住持を務めた。

       ▲親忠の子供たちと家康の先祖達

 

文亀元年(1501年)8月10日に71歳または63歳(生誕不詳のため)で死去した。

 

 

 

大高城から逃げた元康は大樹寺の住職に諭される

松平元康と主従8騎は、落武者狩りに追われて大樹寺に逃げ込み、松平家歴代の墓の前で自害しようとした。

 

 

その時大樹寺の登誉上人(当時の住職)が現れ声をかけた。

【原文】惣名将者可重命不可軽。寺内塔頭有一百軒。彼等為致後詰者奉身命拒戦。

【訳】名将は命を粗末にしないものじゃ。大樹寺には塔頭※4が100あり、僧兵がそなたを守るので安心せよ。

▲※4.塔頭(たっちゅう)とは、禅宗寺院で、祖師や門徒高”僧”僧の死後その弟子が師の徳を慕い、大寺・名刹に寄り添って建た塔(多くは祖師や高僧の墓塔)や庵などの小院。門徒らによって立ち並ぶ塔の中でも首座に置かれたこと、あるいは、門徒らが塔のほとり(=「頭」)で守ったことから塔頭と呼ばれたなどの説がある。

 

 

松平元康は勇気を得て、落ち武者狩りと戦おうと、「門を開けろ」と勇み、閂(かんぬき)※を2度も斬ったという。

※この閂は「関貫木神」あるいは「貫木神」として、大樹寺に祀られている。

 

 

また、緊急事態の鐘を鳴らすと、馬に乗った武者30人、歩行の武者70人が集まった。

 

 

特に70人力の祖洞は、「厭欣の御旗」(「厭離穢土 欣求浄土」と書かれた旗)を持ち出して軍陣旗とし、閂(一説に錫杖)を振り回すと、落ち武者狩りの一団が怯み、その隙に僧兵たちが松平元康を岡崎城へ連れて行ったとある。

             ▲岡崎城

 

松平元康は、登誉上人に深く帰依し、続く1ヶ月の間で、5日と間を空けること無く、大樹寺に通った。

 

 

このとき登誉上人は、松平元康に、こう教えを説いた。

【原文】心無思惟無念無想而唯南無阿弥陀仏計可念(中略)他力護念之加勢仏智不思議智軍法天魔拱手所以無住勝負念矣。

【訳】無念無想で『南無阿弥陀仏』と唱えるのじゃ。
さすれば、他力護念の加勢を得られ、仏智不思議の軍法を智って勝てる。

 

 

以降、松平元康は、戦いのときに暇があれば幾度も「南無阿弥陀仏」と書き、「念仏将軍」と呼ばれた。

 

 

この「陣中名号」の特徴は、最後に「南無阿弥陀家康」と書くことである。

 

 

一方、護国思想の『浄宗護国篇』では、別の話になっている。

松平元康が従者18人を連れて、落ち武者狩りに追われて大樹寺に逃げ込み、松平歴代墓所で自害しようとすると、登誉上人(当時の住職)が現れた。

【原文】檀越之有難者係我法門之厄也。我雖沙門頗解兵策能捨身命爲擁護則敵不足懼矣。即遣使近村招募兵士得緇素五百人。乃、設方略防守寺門。又、以白布遽裁爲旗大書之曰、「厭離穢土欣求淨土乃自揭旗規度軍營處所其指揮籌策殆如宿」。

【訳】檀越(だんえつ。ここでは大樹寺の大檀那である松平氏)の危機は、大樹寺の危機であると言い、近隣に使いをやり、緇素(しそ・出家と在家)500人を集めて寺を守らせ、白い布に「厭離穢土 欣求淨土」と書いて旗として掲げた。

 

 

それから、こんな問答が続く。

登誉上人「元康公は若い時から戦場に赴いているが、その心が分からない。殺戮のためか?」

 

 

松平元康「それが武人の常であるから何の疑問も持ってはいない」

 

 

登誉上人「何のために殺戮するのか?」

 

 

松平元康「武を振るい、城を抜き、国を奪うためである。大志ある者は、さらに天下を狙う」

 

 

登誉上人「天下を取ってどうするのか?」

 

 

松平元康「家門を興隆し、父母を光顕し、その名を後世に残すのである」

 

 

「天下の天下を盗むのは泥棒である。

『六韜』に「天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下なり」(天下は天下人一人の専有物ではなく、天下の人々の共有物である)とある)という話となり、「厭離穢土 欣求浄土」の話になった。

 

 

「厭離穢土 欣求浄土」とは一体何なのか?

【原文】厭離穢土者謂凡一切法以愛速壞以捨永存故取厭捨穢国能致太平使羣生得永存之義也。欣求淨土者謂隨其心淨即佛土淨故取欣求淨心此土先淨紛然亂邦變作淸世之義也。

「厭離穢土 欣求浄土」の定義は、「汚れたこの世を嫌って離れ、浄土を欣求心から喜んで願い求めること)すること」ではなく、「紛然たる乱邦(らんぽう・秩序の乱れた国)を清世(せいせい・太平の世)に作り変えること」という護国思想に基づいて変えられている。

 

 

「厭離穢土」「欣求浄土」は、源信『往生要集』の小タイトルである。
意味はそれぞれ次の通りです。

「厭離穢土(おんりえど/えんりえど)」→「この娑婆世界は穢(けが)れた国土として、厭(いと)い離れる」「欣求浄土(ごんぐじょうど)「阿弥陀仏の極楽世界は清浄な国土であるから、そこへの往生を切望する」後に「三河一向一揆」が起きた時のことだ。

 

 

その争いは、浄土思想のぶつかり合いとなり、一向宗(浄土真宗)側も、家康(浄土宗)側も、旗に「六字名号」「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)(私は阿弥陀仏に帰依いたします)と書き、敵味方の区別がつかなかった。

厭離穢土 欣求浄土の旗を背負って勇ましく戦う

 

そこで徳川家康は、旗に「厭離穢土 欣求浄土」(この世界は汚れているから、(戦って)死んで極楽に生きましょう)と書いたという。

 

 

一向宗が使った旗「進者往生極楽 退者無間地獄」※ と同義だ。

※「進まば往生極楽、退かば無間地獄」なので戦って死ねば極楽へ行けるが、逃げたら無間地獄行きになる。

 

 

この大樹寺の寺宝「厭欣の御旗」は、信長の父・織田信秀が攻めてきた時に、大樹寺開山・勢誉上人が兵を鼓舞するために作った旗だとされる。

 

 

掲げれば無敵であるので、徳川家康は、ここぞという時に借りて使ったというが、現在、大樹寺にはない。

 

 

『旧考余録』では日光東照宮にあると記し、『机の塵』では本多正純と共に日光東照宮の作事奉行を務めた藤堂高虎の藤堂家にあるとする。

 

 

今川の大軍相手に無茶できない「桶狭間の戦い」における織田信長の戦法は「ヒット・アンド・アウェイ」である。

 

 

今川義元の本陣をピンポイントで攻め、その首をとると、馬の首に掛けて清洲への帰路を急いだ。

 

 

日暮れ前には清洲に戻り、翌日は首検分を行ったという。

上総介信長は御馬の先に今川義元の頸をもたせられ、御急ぎなさるる程に日の内に清洲へ御出であつて、翌日、頸御実検候ひし也。 頸数三千余りあり。(太田牛一『信長公記』)

 

 

今川義元を討ったとはいえ、生き残った今川軍の兵は、織田軍の兵の数倍である。

 

 

桶狭間周辺における織田方の砦は攻め落とされていたので、落ち武者狩りと遭遇したら危険だった、そもそも翌日の清洲での首検分に間に合うよう、急がなければならない。

 

 

松平元康の首が欲しくても、矢作川を渡られた時点で諦めると思うので、この「大樹寺の陣」(「東照公大樹寺御陣」とも)が起きたとは考えにくい。

 

 

余談ではあるが、このとき松平元康は、大樹寺に学びに来ていた、聡明で達筆な少年に惚れ込み、小姓とした。

 

 

彼こそ、後の徳川四天王・榊原康政である。

大久保忠教『三河物語』→「大高之城を引迫かせられ給ひて、岡崎には未駿河衆が持て居たれ共、早渡して退きたがり申せ共、氏真にしつけのために、御辞退有て請取せられ給はずして、すぐに大樹寺へ御越有て御座候えば、駿河衆、岡崎の城を明て退きければ、其時、「捨城ならば拾はん」と仰有て、城へ移らせ給ふ。

【訳】大高城を出て、岡崎城に行くと、駿河衆はまだ(駿河国に逃げ帰らずに)岡崎城におり、松平元康に岡崎城をすぐに渡して、早く駿河国へ逃げ帰りたかったていたが、松平元康は、今川氏真に憚って辞退し、大樹寺に入ると、駿河衆が逃げ出して空になったので、松平元康は、「捨てられた城であれば(拾っても誰も文句は言わないであろうから)拾おう」と言って岡崎城に入った。

 

 

やはり松平元康は慎重であった。

大樹寺に留まり、すぐには岡崎城へ入らない。
城代から使者が来て「我々は駿河国へ退くので、代わりに岡崎城へ入るように」と告げられたが、「城主・今川義元(本当に亡くなったのであれば今川氏真)の許可がないので、入城すれば文句を言われる」と伝えて辞退するという役者振りを見せる。

 

 

すると5月23日に駿河衆が岡崎城から出ていったので、「捨城ならば拾はん」と入城したのだという。

 

 

岡崎城に入るのに慎重だったのは「今川氏から離れて自立した」と氏真に思われたくなかったからだろう。

 

 

自立と思われたら、駿府の妻子や人質(重臣たちの妻子)が即座に処刑される可能性もあった。

 

 

岡崎城に入った後、松平元康は、織田信長や伯父・水野信元と戦っている。

 

 

境界(領地)争いであろうが、今川氏真には、今川氏のための戦いに映ったようである。

 

 

 

今川氏真は愚将か名将か

しかし、「桶狭間の戦い」の翌・永禄4年(1561年)、自立がばれると、今川氏真は吉田城代・小原鎮実に命じて、龍拈寺(愛知県豊橋市新吉町)の門前で、人質(一説に13人)の公開処刑(串刺し刑)を執行させた。

 

 

駿河衆が岡崎城から出ていくのに数日かかったのは、駿府からの命令を待っていたため、指揮官である城代はいなかった。

 

 

当時は山田新右衛門(越後守)とされる。

駿河国越後島に「越後島殿屋敷跡」(静岡県焼津市越後島)があり、「山田越後守の墓」がある。

 

 

同所の山田家には、山田越後守は、「桶狭間の戦い」の時の岡崎城代で、「今川義元討死」の報告を受け、桶狭間へ行って殉死したと伝えられているとのことである。

 

 

しかし、『信長公記』では自害ではなく、討死としている。

山田新右衛門という者、本国駿河の者で、義元別して御目を懸けられ候。討死の由承り候て、馬を乗り帰し、討死。

【訳】山田新右衛門の本国は駿河国である。今川義元が特に目をかけていた人物で、「義元討死」の報を聞くと、馬に乗って引き返し、討死した。

 

 

 

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