浅井長政の父・久政が家臣の安養寺氏に宛てた古文書です。
この文章は1920代に一度確認されて以降、所在が分からなくなっていましたが図書館の調査で長浜市内の商家で発見されました。
滋賀県で戦国ファン垂涎※1のニュースが飛び込んできました。
※1.垂涎(すいぜん)とは、食べたくてよだれを垂らすこと、またはある物を手に入れたいと熱望すること。
単に欲しいというより、執着心を持って熱望する様子を指す。
「垂涎の的(まと)」「垂涎もの」といった表現で使われ、類語には「喉から手が出る」「渇望」がある。
浅井長政の父・久政による「石垣補強」を命じる書状が約100年ぶりに再発見されたのです。

▲ネットより引用
織田信長の猛攻を前に、浅井一族はどう動いたのか?
最新の研究で判明した、滅亡前夜の生々しい防衛戦略を徹底解説します。
100年ぶりに姿を表した「久政の肉声」
書状は、織田信長と対峙した浅井長政の父・久政の筆。
はじめに書きましたが、1920年代に確認されて以来、行方不明だった文書が長浜市内の商家で見つかった。
書き写されていた『東浅井郡志』には、「石」が「衆」と間違って書き写されていた事もわかったということ。
今回発見された書状は、長浜市にある小谷城戦国歴史資料館で行われているテーマ展「浅井長政と小谷城」の中で、4月24日〜5月11日まで展示予定となっています。
偽物ではなく、久政の花押が本人のものと断定された。
書状には何が書かれていた?
隠居の浅井久政の書状は、織田信長が侵攻して来るから、それに備え小谷城の防御力(石垣)を強化するため石を運搬する「石引き」※2に参加するよう家臣へ命じる内容の書状。
※2.石引きとは、主に城郭や社寺の建築において、巨石を「ころ」と呼ばれる木の棒を敷いて転がし、大勢で引き運ぶ作業です。
一人や数人が石の上で音頭をとり、多人数で拍子を合わせる光景が江戸時代の文献にも加藤清正 名古屋城石引きの図として残る、伝統的な石材運搬技術です。
また、金沢の「石引」のように地名や、宝石の重さを表す「石引き表(キャラ引き)」の文脈でも使われます。石の運搬。
織田信長が率いる軍勢が浅井氏の本城である小谷城を攻撃したのが、天正元年(1573年)であるため、浅井久政は、元亀元年(1570年)織田信長の来襲に備えて居城の防御力(石垣)を強化するよう家臣に命じた、戦国期の城郭石垣の記録として極めて貴重な史料です。
内容的には
書状には、久政が家臣に対し、「石垣を急いで補強しろ」と命じる具体的な指示が記されていました。
◇指示の内容: 城(あるいは砦)の石垣を高く、頑丈に作り直すよう命じています。
◇切迫感: 文中には「油断なく」「急いで」といったニュアンスが含まれており、かなり急を要する状況だったことが伺えます。
歴史的な重要性がある書状
この書状が注目されている理由は、「織田信長との対決」を裏付ける資料である可能性が高いからです。
◇信長への備え: 時期的には、浅井氏が織田信長と敵対し始めた頃、元亀元年(1570年)の「姉川の戦い」前後のものと考えられます。
圧倒的な軍事力を持つ信長の侵攻を食い止めるため、必死に防御力を高めようとしていた生々しい証拠です。
◇石垣技術の過渡期: 当時はまだ「高い石垣」を築く技術が普及し始めたばかりの時期です。
浅井氏がいち早く最新の築城技術(石垣による強固な守り)を導入しようとしていたことが分かります。
◇浅井久政の再評価: これまで久政は、息子・浅井長政に実権を譲ったといえ「隠居の身」という印象が強かったのですが、実際には最前線で防衛指示を出すなど、重要な役割を果たしていたことが裏付けられました。
※.この発見は「滅びゆく浅井一族が、最強の敵・織田信長を前に、どのように戦おうとしていたか」を解き明かす第一級の史料です。
隠居でない久政の真の姿
大永6年(1526年)に浅井亮政の長男として生まれ、幼名を猿夜叉といい、仮名は新九郎、受領は下野守を称した。
大永6年(1526年)に浅井亮政の長男として生まれ、幼名を猿夜叉といい、仮名は新九郎、受領は下野守を称した。
父・浅井亮政は正室(蔵屋)との間に一人の女子・鶴千代しか生まれず、この鶴千代に浅井一族の田屋氏の男を婿にとり 明政と名乗らせ跡継ぎとした。
ところが、その後に、側室との間に久政が生まれたことで家督は久政が継ぐことに なったのである。
おもしろくないのは、婿になった明政は京極高延と結んで久政と対立、かつて父が対立していた京極高延らが浅井氏領に 進出、さらに南近江に勢力をもつ六角義賢も進出を始め、浅井家は四面楚歌状態となったのである。
結局、苦境に立たされた久政は六角氏の傘下に入ることによって領国を維持する道を選んだのである。
六角氏に服属した久政は嫡子・猿夜叉(のちの長政)に六角義賢の「賢」の字をもらい「賢政」と名乗らせ、 六角家の重臣・平井定武の娘を賢政の嫁に迎えるなど浅井氏の存続に努めたが。
永禄2年(1559年)4月頃、賢政(長政)は、父・久政に無断で妻を離縁し平井定武の元に送り返している。
ところが、このような久政の姿勢が 『浅井三代記』など近世軍記物などに「久政無能説」を書かせる原因となった。
しかし、先代の城主・亮政の死後の混乱期にあって、 久政には江北の領主であり旧主家であった京極氏、近江守護で幕閣の実力者六角氏を敵にまわして勝算は無かった。
久政のとった外交政策は、分をわきまえた非常に現実的なものであったというべきだろう。
久政は武の人というより文の人というべき存在で、領内に用水争論が起こると上位権力者として積極的に関与して 全体を把握、公平な調停に努めたり、小谷城山上に六坊を築いて税や寺社政策などを押し進めるなど 着々と領国基盤を築き上げていた。
華やかな軍事的事績こそないが、行政手腕や外交手腕は凡庸ではなかった。
やがて、六角氏に従うのを快しとしない赤尾・遠藤・安養寺氏らの浅井重臣らは、永禄2年(1559年)、 久政の嫡子・賢政(長政)を戴き浅井久政を隠居(この時34歳)させるに至った。
とはいえ、その後も家中(長政)に対する 影響力は有していたようだ。
そのことは、織田信長が朝倉攻めをした際、久政は長政に信長との同盟破棄を強く迫り、 ついに朝倉氏に味方することに決したことでもうかがわれる。
しかし、この久政の判断が結局は 浅井氏滅亡の原因となった。
小谷城の戦いでは小丸に拠っていたが、 隣接する京極丸が羽柴秀吉勢に落とされると自害して果てた。享年五十歳。
※. 余談ながら、初代浅井城主・亮政の婿・明政は、久政が家督となったのち田屋氏に復して湖西の田屋城主※3になった。
※3.初代浅井城主・亮政の婿・明政とは、この時の田屋氏は田屋明政で、浅井初代・浅井亮政と正室蔵屋との間に出来た鶴千代と結婚し、亮政の嫡男が早世していたため娘婿の明政が浅井家の家督を継ぐことになっていました。
しかし、1542(天文11年)に亮政が死去すると、亮政の側室の子の久政と家督争いをすることになります。
家中を2分した争いとなりますが、結局、明政は田屋に隠棲し、久政が家督を継ぐことになります。
歴史に「もし」は禁句ですが、もし明政が二代目になっていたら、その後の織田信長との姉川合戦や小谷城攻めは無かったかもしれません。
▲▲
浅井氏滅亡後、娘婿の政高※4と孫の直政※5は、淀君との縁から豊臣秀吉、秀頼に仕えた。
※4.政高と※5の直政とは、
※4.政高(浅井政高/新次郎): 安土桃山時代から江戸初期にかけての「武将、「通称は茂右衛門 / 茂左衛門。
実父は不明、家譜によれば、田屋明政の甥という。その明政の娘養子となって、その娘(海津局)を妻にしています。
初めは生田姓を名乗り、後に田尾姓を経て、浅井姓を称し淀殿に侍女として仕えた海津局と共々豊臣秀頼に仕えた。
※5.直政(浅井直政/新三郎)政高の息子。
浅井家滅亡後、彼らは浪人となるなど苦しい状況でしたが、浅井長政の娘である「茶々(後の淀君)」が豊臣秀吉の側室となり、秀吉の後継者・秀頼を産んだことで立場が一変します。
淀君(茶々)は浅井長政の長女です。
豊臣家で絶大な権力を持つ淀君は、浅井家の再興や生き残った血縁者の保護を望みました。
その縁(コネ)を使って、親族である政高・直政親子は豊臣家に召し抱えられることになりました。
最初は天下人・秀吉に仕え、秀吉の死後はその息子・秀頼に仕えました。 浅井家を滅ぼした秀吉の家臣になることは複雑な心境であったと思われますが、生き残るため、そして淀君の引き立てがあったため、豊臣家の下で職を得ることができたのです。
大坂の陣が起こると 政高は大坂城内で討死、千姫とともに脱出した直政は江戸に下って秀忠の正室・崇源院(淀殿の妹・江)に仕えた。
直政は崇源院をはばかって浅井姓を三好姓に代え子孫は徳川家旗本として存続した。
羽柴藤吉郎・小一郎とのつながり
小谷城跡(長浜市湖北町)地は、標高約495m、麓からは350m以上を誇る小谷山には、戦国大名・浅井氏三代の居城と知られる小谷城があった。
その跡地には、本丸跡や大広間跡、黒金門跡などの石垣や土塁が残り、国指定史の山城です。
小谷城は、大永5年(1525年)頃、北近江(現・長浜市と米原市)を治めた戦国大名・浅井亮政が小谷山に築いた城です。
守護・京極氏の支配から独立した浅井氏三代の拠点として、約48年間、その威容を誇った。
浅井長政の時代には、その妻で戦国一の美女と称された織田信長の妹・お市の方が継室として結婚し、二人の間に生まれた浅井三姉妹、茶々・初・江が居た城としても知られて居ます。
お市以外の子供
ここで、おゃって思うかもしれませんが、長政には妻・お市の子以外に男子が2人いました。
「藤原氏浅井系図」によれば、浅井長政とお市の間には、三姉妹の他に万福丸という長男と、万寿丸という次男がいたことになっている。
万寿丸については、万菊丸とする本も多いが、同系図によれば名を長秀といい、正芸(伝法院)と名乗って坂田郡長沢村(現・米原市長沢)の福田寺住職になったと記している。
長男の万福丸については、『信長公記』に記述があり、小谷落城時に10歳とあるので、永禄7年(1564年)の生まれとなる。
したがって、お市の婚期を永禄10年~11年との通説を取れば、この長男はお市以外の女性と、長政との間に生まれた子と考える必要が生じてくる。
『信長公記』はこの長男について、小谷落城後捕らえられ、関ヶ原で磔に処せられたと記す。
江戸初期に成立した『当代記』には、盲人となり加賀国に忍んでいたが、お市らを頼って出てきたところを捕らえられ、木之本で信長の命により殺害されたと記している。
他方、寛政3年(1791年)成立の『翁草』では、敦賀に潜んでいたが探し出され、木之本で串刺になったと記す。
諸説紛々たるものがあるが、やはり信長家臣として、実際に事件を見聞きした、太田牛一の著『信長公記』の記述を信じるべきであろう。
次男については、『信長公記』には記載がない。
『浅井三代記』は『寛政重修諸家譜』と同じく福田寺に逃れたとある。
『翁草』では福田寺の弟子となり、慶安と名乗ったと記されている。
一方、龍谷大学図書館本願寺資料研究室蔵『福田寺系図』『布施山温古記』にも、この次男についての記述がある。
そこでは名を万菊丸とし、福田寺十一世覚芸の養子となり、十二世正芸(伝法院)となったと記され、先の『寛政重修諸家譜』の記述と一致する。
元和2年(1616年)10月1日の没とある。
『布施山温古記』には、最初信長側に察知されることを恐れ、浅井郡菅浦(現・西浅井町菅浦)の福田寺の末寺・安相寺に匿われたという。
この縁により、福田寺は安相寺にサシ鯖5尾と苧(麻)などを毎年7月に送っていた。
逆に安相寺から福田寺へ、7月に春梅干一包を送る慣行があったと記されている。
久政の決断なければ小谷城安泰
元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦いから始まった、織田信長との激しい戦いの末、天正元年(1573年)に小谷城は落城。浅井家は滅亡してしまいます。
その後、小谷城は、この戦において攻め手の中心となった信長の家臣・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の手に渡りました。
しかし、秀吉は今浜(現・長浜市)に新たな城を築いたため、小谷城は廃城となりました。
当時の山城の構造をしのばせる多くの遺構が残る小谷城跡は、昭和12年(1937年)に国の史跡に指定され、歴史の舞台としての存在感を今なお放ち続けています。
現在の小谷城付近
滋賀県長浜市の小谷城跡は、浅井氏三代の居城(国指定史跡・日本五大山城)であり、現在は、小谷山に石垣や郭が残るハイキング・歴史スポットです。
桜馬場や本丸跡からは琵琶湖の絶景が一望でき、麓の資料館や河毛駅からアクセス可能ですが、本丸より上部は本格的な登山装備が必要です。
城跡の現状と見どころ
現在の小谷城付近の詳細な様子は以下の通りです。
◇遺構と歴史: 織田信長に敗れた落城の歴史を伝える「首据石」や、堅固な石垣・土塁が残っています。
◇パノラマ絶景: 桜馬場跡からは、眼下に琵琶湖の広大なパノラマが広がります。
◇自然とハイキング: 春は桜、秋は紅葉の名所であり、大嶽城跡まで続くハイキングコースとして親しまれています。
アクセスと設備
◇場所: 滋賀県長浜市湖北町伊部。
◇アクセス:電車: JR河毛駅から徒歩約30分またはタクシーで5分。
車: 小谷城スマートICから約7分。
周辺施設: 麓には「小谷城戦国歴史資料館」があり、周辺の観光スポットとして鶏足寺や黒壁スクエアなども挙げられます。
観光の注意点
◇登山: 中腹の番所跡までは車で行けますが、本丸、山王丸、大嶽跡へは険しい登山道を歩くため、歩きやすい服装と靴が必須です。
◇冬季: 冬季は積雪や林道の凍結が予想されます。
周辺は静かな山間部であり、戦国時代を偲ぶ歴史探索が楽しめます。
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