岩村城へ登には、岩村町の東側にある山を目指して行けば行けます。
入り口には資料館と佐藤一齋の銅像、その上に行くと下田歌子・三好学の銅像があります。
藤坂から本丸までの道案内。
岩村城の始まりは、鎌倉幕府が出来ると源 頼朝は功臣、加藤景廉をこの
遠山荘の地頭とし、嫡男加藤景朝はここに住み遠山姓を称した。
▲イメージ
そして築城をした。
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承久の変には、遠山景朝は北條泰時の軍に従って西上し官軍を破り、官軍の将一条宰相中将藤原信能※1を捕え鎌倉まで連行する途中、鎌倉より使者が来て恵那郡岩村町相原にて処刑した。
※1:一条信能(いちじょうのぶよし)建久元年(1190年)-承久3年(1221年7月25日)は鎌倉時代初期の公卿(くぎょう)。藤原北家頼宗流、権中納言一条能保の次男で母は江口の遊女慈氏。子には忠俊がいます。異母兄弟に高能、実雅、尊長らがいる、官位は従三位・参議。
現・藤原信能は巌邑神社の祭神で、毎年八月の第一土曜・日曜に一条信能を忍んでお祭りが行われます。
▲巌邑神社、この地で処刑された。
上記の承久の変を見るとすでに岩村城は、この時点築城されていた事がわかります。
⚫️上記の承久の変をクリックすると一条信能と後鳥羽上皇のことが書いてあります。興味のある方はみてください。
遠山氏時代(鎌倉室町期)景廉から景任まで約400年続いた。
岩村城の発祥の事だから、この事は書かないと始まらないので書きます。
加藤景廉は遠山姓を称して子孫(遠山氏最後の城主・遠山景任)遠山の荘を約400年にわたり支配していた。
遠山荘は恵那全域と伊那の一部に及び、子孫は繁栄していき七遠山の孫があり、各地に子城を(明知城・苗木城等)置き、戦国時代には十八城があったと言われています。
甲陽軍艦によると、武田勝頼は遠山氏の子城十八城を悉(ことごと)く破り甲府に凱旋した事を述べている。
太平記伝によれば、南北朝時代に遠山三郎が霧が城(岩村城)を守っていた事が記されています、また遠山由来記にも遠山景廣が城の大修理をした事が記されています。
しかし、中世の城は土塁であって、石垣や建造物は天正以後のものです。
天正には織田信長の臣・川尻慎吉が入城してきて城下を富田から現、城下町に移転した、その時に作られたのが天正疎水・天正三年(1575年)です。
⚫️上記の天正疎水のところに、同じことが書いてありますが、より詳しく書きましたので興味のある方はご覧になってください。
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遠山氏が終わって歴代の岩村城主は
加藤景廉:文治元年(1185年)源頼朝の重臣だった武芸を上げて、遠山荘の地頭として、このこの岩村城を開祖しました。
現・岩村町八幡神社の祭神として祀ってあり、承久三年八月卒。毎年十月の第一土曜と日曜に景廉と嫡男景朝をしのんで岩村武並神社から八幡神社に当時の衣装を身につけた町民が行列をしています。
遠山景朝:景廉の長子で、後に遠山景朝を名のる。現・岩村武並神社の祭神として祀ってあります。建長の頃殁。
(〜この間約200年間の系図不明)
遠山頼景:天文四年殁
遠山景友:大永四年殁
遠山景前:天文の頃、弘治二年殁
遠山景任:永禄の頃、元亀三年殁。織田信長の年下の叔母を妻とし恵那郡上村合戦に武田軍に敗れる。
以上↑遠山氏は約400年続いた。
御坊丸:信長の五男、遠山景任の養子。元亀三年八歳にて相続した後、天正元年武田軍の秋山虎繁によって甲府に人質としておくられた。
秋山虎繁:この時武田軍は岩村城を攻めて、天正元年岩村城主になる後、天正三年信長によっておつやの方(先の遠山景任の妻)と共に長良川にて磔刑。
川尻慎吉:信長の臣で、天正三年城主となる。天正十年甲府に転封するまで、城下を富田から今の城下に移し、天正疎水を作った人物。
森 蘭丸:信長の臣で川尻慎吉の後の城主となったが、同年六月に本能寺にて明知光秀の謀反によって戦死十三歳。
森 長一:蘭丸の兄、金山城にいて各務兵庫を城代としていた、天正十二年長久手の戦いにて戦死。
森 忠政:蘭丸の弟、金山城にいて、各務兵庫を城代としていた、のち、慶長四年川中島に転封。
田丸具規:慶長四年、秀吉の命により城主になったが、翌年五年関ヶ原の戦いに西軍に味方したため、城を追われた。
興味のある方は、上記の田丸具規をクリックすると詳しいことが書いてあります。
関ヶ原の戦いが終わって、これより徳川時代になります。
まず、大給松平家とは、松平親忠の次男・乗元を祖とする松平氏の庶流。十八松平の一つ。三河国加茂郡(現・豊田市)を領したことから大給松平家と称する。松平宗家(徳川氏)に仕ていた。
松平家乗:慶長六年城主になる。慶長十九年殁
松平乗寿:慶長十九年家督、寛永十五年浜松城に転封
丹羽氏信:寛永十五年城主、正保三年殁
丹羽氏定:正保三年相続、明歴三年殁
丹羽氏純:明歴三年相続、延宝二年殁
丹羽氏明:延宝二年相続、貞享三年殁
丹羽氏音:貞享三年相続、元禄十五年越後に転封
これより、先の松平乗寿の孫が城主となる。
松平乗紀:元禄十五年小諸より岩村藩に入封、2万石。
松平乗賢:亨保二年相続、三万石大名に昇格、幕府老中になる。
松平乗薀:延享三年相続、子に林述斎。
松平乗保:天明元年相続。
松平乗美:文政九年相続。
松平乗喬:天保十三年相続。
松平乗命:安政二年相続、明治二年岩村藩知事、のち子爵。
以上が岩村城の城主です。
興味のある方は、松平乗命をクリックしてください、この時名古屋城の姫様がたった三万石の岩村藩に嫁いできましたことが書いてあります。
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岩村城へ行くには
明智線「岩村駅」を下車して改札口を出て見上げると、山があります、それが城山で東西南北でいうと東に当たります。
すなわち「岩村駅」は西になります。
まず、方角を覚えておいてください。
東方に鬱蒼と茂る城山標高717mの山、横が水晶山です。
駅を降りて登っていくと城下町があります。
いまの城下町は川尻慎吉が城主になった時、天正時代に富田地区から移転して作った城下町です。
それまでは富田地区の方が城下町でしたが、いまでは跡形もありませんが、町名だけが残っています。
興味のある方は上記の川尻慎吉をクリックしてください。
兎に角(とにかく)このだらだらとした坂を岩村川に添いつつ町通りを上ること約十町(1町は109.0909m、1Kmは9.16667町隣ります。)を歩くと城山麓に達します。
昔は城山の麓に町立巌邑小学校、門が藩校・知新館の門構えでした。
その下に岐阜県立岩村高等学校がありましたが、学問の町でしたが平成の合併で明智に移ってしまいました。
今は小学校にあった門が新・小学校の門になっています。
知新館はいまでも麓の藩主邸跡に佐藤一斎の銅像と共にあります。
これより数丁険しい坂道を登っていく途中に「下田歌子」が育った家「三好学」の銅像などがあります。
ここより上が藤坂(これは祖・加藤景廉の奥方が紀州藤坂村から持ってきた藤の実を植えて大木のなったという言い伝えがあります。)から一の門までをいいいます。
▲ここが藤坂です。
藤坂の急坂は岩村城の要害の一つで山城の特殊性を味わせてくれる場所です。
初門から左側の谷は人工が加えられていて堀の役を果たしています。
右側の切り株は、太平洋戦争時に船を作るため伐採されました。
何にかと岩村城はお国の役にたっています。
今年(2019年)も日時は定かでないですが、名古屋城を建て替えるということで大木を伐採してどこかに保管されています。
いずれは名古屋城の柱の部分になるはずです。
岩村城と名古屋城は親戚になり、将軍様の孫にあたる姫が岩村城の最後の城主松平乗命(先の城主の松平乗命をクリックしてください)に嫁いで来られました。
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岩村城の正門は前衛門である
いよいよ登っていく段階で第一門にささかかります。
藤坂の終点が一の門で正式には大手一の門といい、ここから岩村城本丸と呼んでいる。
一の門は二階門(二階建)となっています。
初門に続いて一の門から城下町を一望できたが、いまは木が茂って見ることはできないが、昔は城下町と城の西南北側の監視は二十四時間体制で行われていました。
右側の台地には多聞櫓の他に屋敷があって、宿泊して勤務されていました。
左側にも多聞櫓があり厳重な構えをしていました。
▲一の門と左が多聞です。イラストに色をつけました。
一の門から土岐門までを土岐坂といい、道の勾配はやや穏やかになってきます。
⚫️ここに第一門の写真とイラストを入れる⚫️
◆土岐門◆
岩村遠山軍が土岐氏を破り、その城門をここに移したという伝説から土岐門の名があります。
ここにあった土岐門は廃藩置県のさい岩村町の飯羽間の徳祥寺へ山門として移転され、岩村城の貴重な遺構として現存しています。
▲この門が廃藩置県でこのお寺の門になった徳祥寺です。
◆大手門・三重櫓・畳橋◆
大手門へ行くには空壕に架かる畳橋を渡るのだが、現在は橋がなく空壕を歩きますが、ここに畳橋のCGがありますから掲載しておきます。
▲畳橋のCGです。
▲第一門より土岐門通って畳橋を渡って大手門に行くイラストです。
畳橋とは敵が来ると橋坂を取り外すことから、この名が付いたと言われています。
大手門(二階建)の前に桝形があり、空壕に望んで三重櫓が威容を誇っており、城下町から見ると天守のように見えた。
この辺りが最も要害堅固な場所であり、絶壁に望んで美しい勾配を描く石垣も二ヶ所に見ることができます。
長文になったので、今回はここまでの案内で、次回から段々天守に向かいます。