美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

徳川慶喜 未分類

徳川慶喜の家系図と正室・有栖川宮の娘美賀君と渋沢栄一の関わり

投稿日:2021年3月28日 更新日:

  徳川幕府・最後の将軍・第15代征夷大将軍・徳川慶喜(在職:慶応2年12月5日(1867年1月10日)〜慶応3年12月9日(1868年1月3日))ことを、知っていそうで、あまり知らないという方がいると思います。

 

 

江戸城を無血開城して武家政権を朝廷政権に返上した徳川将軍。

大政奉還をした将軍は知っていました。

渋沢栄一が幕臣だということも知らなかったです。

 

 

慶喜の水戸藩の家系図といえば、あの有名な人物

 初代は徳川頼房、2代は徳川光圀、3代は徳川綱条、4代は徳川宗堯、5代は徳川宗翰、6代は徳川治保、7代は徳川治紀、8代は徳川斉脩、9代は徳川斉昭、10代は徳川慶篤、11代は徳川昭武、12代は徳川篤敬で明治に入って徳川は終わった。

 


▲徳川斉昭と弘道館           ▲水戸城薬医門

 

慶喜は、九代藩主、裂公・徳川斉昭の七男として天保八年(1837年)九月二十九日に江戸の水戸藩邸小石川屋敷で誕生、幼少の頃は名は、七郎麻呂と付けられた。

                                     ▲小石川後楽園

 

この藩邸は、水戸藩の上屋敷で屋敷内の庭園は小石川後楽園と言って、いまも残っています。

 

 

母親有栖川宮織仁親王の王女で、登美宮吉子女王です。
子沢山で知られた、父・斉昭の七男、幼い頃の名は松平七郎麻呂と呼ばれていました。

 

 

跡目は、正室から生まれた嫡男・慶篤です。
斉昭は、慶喜の聡明さを見越して、長男にもしもの不慮があった場合を考えて手元に置いていた。
慶喜は、部屋住みのまま生涯を終わったかもしれなかった?

 

 

幕末の混乱の世は、慶喜を最後の徳川将軍の座に担ぎ上げました。
藩主・斉昭はこのまま育てては華美(かび)※1風に染まるとの考えで、生後半年ほどで水戸に移され質実剛健の教えの元育てられます。

※1.華美とは、華やかで美しいこと、華やかすぎて不相応なこと。

 

 

父・徳川斉昭を蟄居、嫡男・慶篤藩主にという沙汰※2が下され、天保15年(1844年5月6日)に幕府から駒込の水戸藩中屋敷での蟄居謹慎を命じられる。

※2.沙汰とは、物事を処理すること。特に、物事の善悪・是非などを論じ定めること。決定したことなどを知らせること。通知。また、命令・指示。下知。「沙汰があるまで待て」「沙汰を仰ぐ」「詳細は追って沙汰する」

 

                          ▲徳川吉宗イメージ

一橋家の慶喜と一条美賀子との結婚

そして五歳のときから、水戸の弘道館で徹底的な英才教育をほどこされ、弘化4年(1847年)十一歳の時、第八代将軍・徳川吉宗の血を引く一橋家の養子となった。

 

 

十九歳の時、徳川慶喜は2歳年上の有栖川宮の娘・美賀君結婚した。

 

 

嘉永6年(1853年5月)美賀君は慶喜と婚約します。
実は関白・一条忠香の娘・千代君(照姫)と婚約中でしたが、婚儀直前、千代君が天然痘にかかって病死したため、美賀君が代役にになって、慶喜と結婚しました。

 

 

美賀君は、天保6年(1835年)公家・今出川公久)の娘として生まれ、幼名は延君(のぶきみ)といい、のちに美賀君と改めて行きます。

 

 

最後の征夷大将軍・徳川慶喜の正室・徳川美賀子、養父は一条忠香、昭憲皇太后※3は義妹で一条美賀子です。

※3.昭憲皇太后とは、日本の第122代天皇・明治天皇の皇后。諱は勝子。旧名は一条美子。

 

 

当時外国戦の頻繁な来航に、幕府は觸部問題を抱えていましたが、斉昭は幕府より先に、軍備強化を始めてしまいました。

 

文政七年(1824年)に、水戸藩領内の大津浜にイギリス船が流れ着き上陸した、船員たちが食料を求める事件が起きています。

 

 

水戸藩にとっては他人事はなく、その軍事訓練も兼ねて、水戸城下近くの千束原で大規模な追鳥り狩りを行っていました。

 

 

この一連の行動が幕府から問題視されたのですが、この裏には水戸藩内の守旧派と改革派の争いもありました。

ので斉昭が蟄居させられ、わずか14歳の嫡男・慶篤水戸藩十代藩主になり、この年の11月26日には、斉昭の謹慎は解かれ、藩政への関与が許されるのは、嘉永2年(1849年3月13日)になってからです。

 

 

斉昭は息子・慶喜を一橋家へ養子に出す

この斉昭の謹慎期間中に七郎麻呂一橋家入りが決まります。
弘化4年(1847年8月1日)将軍・家慶命令ですから断ることはできなません。

.徳川家慶とは、江戸幕府 第12代征夷大将軍、父は第11代征夷大将軍・徳川家斉、母 香琳院の間に生まれた。
兄弟は尾張名古屋城第12代・徳川斉荘の四女釣姫と美濃国岩村城・松平乗命と結婚、これで岩村城は徳川将軍家と尾張名古屋城とは親戚になった。

そのことを書いたブログが上記・釣姫をクリックしてください。

 

同年10月5日に慶喜は一橋家の屋敷に入り、12月1日11歳の時、七郎麻呂は元服して徳川慶喜と名乗り、後を継いだ。
この一橋家とは、徳川御三卿※3の一つです。

※3.御三卿とは、江戸時代の中期、徳川氏の一族から分立した大名家三家をいう。

大名家三家とは
1.田安徳川家(田安家)始祖は徳川宗武(第八代将軍・徳川吉宗の次男)
2.一橋徳川家  (一橋家)始祖は徳川宗尹(第八代将軍・徳川吉宗の四男)
3.清水徳川家(清水家)始祖は徳川重好(第九代将軍・徳川家重の次男)

※徳川将軍家に後嗣(こうし)がない際に将軍の後継者を提出する役割を担った。また、徳川御三家へ後継者を供給することにもなった。

 

 

嘉永6年(1853年6月3日)アメリカ東インド艦隊司令官ペリー提督が軍艦4隻を率いて神奈川県浦賀沖にやってきます。

 

▲黒船(イメージ)                 ▲ペリー提督(イメージ)

 

 

提督は日本に開国を求めるアメリカ大統領の新書を携えて日本側に受理を迫ります。

 

 

12日に幕府に新書を押し付けて浦賀を去り22日に、将軍・徳川家定が61歳で世を去りました。

 

 

嘉永6年10月23日には、嫡男・家定が江戸幕府第13代征夷大将軍の座に就いた。

家定は幼い頃より病弱で30歳を過ぎても世継ぎが誕生しませんので、次期将軍争いが始まりました。

 

安政3年(1856年11月)篤姫が正室になる。

 

 

候補は、徳川慶喜と家定の従兄弟になる紀州城主・徳川慶福です。

 

 

南紀派に敗れ、第14代将軍になれず慶福が将軍になる

慶喜を押すのは、新藩大名 福井藩主・松平春嶽や外様大名 薩摩藩主・島津斉彬、幕政進出を計親藩や外様大名の一橋派です。

 

一方慶福を押すのは、譜代大名筆頭の彦根藩主・井伊直弼や、これまで幕政を担ってきた譜代大名の南紀派です。

結果的に安政5年(1858年12月1日)に慶福改め徳川家茂が第14代将軍になりました。

家茂13歳、慶喜22歳でした。

 

 

井伊直弼は、反対派や朝廷の動きに危機感を持った大老・井伊直弼が断行したのが、世に言う『安政の大獄』です。

 

 

福井藩主 松平春嶽や尾張藩主 徳川慶勝や土佐藩主 山内容堂らは蟄居・謹慎を水戸藩主 徳川慶篤には登城禁止、福井藩士 橋本左内や長州藩士 吉田松蔭は処刑、水戸藩家老 安島帯刀には切腹、多くの尊王攘夷・一橋家の大名・公家・志士ら多くが処罰されました。

なぜ、ここまで厳しく取り締まったか?

 

 

朝廷から幕府には、勅使”戊午の密勅“※4が下されいたからです。

※4.戊午(ぼご)の密勅とは、日米修好通商条約の無勅許調印を受け、安政5年8月8日(1858年9月14日)に孝明天皇が水戸藩に幕政改革を指示する勅書(勅諚)を直接下賜した事件である。

 

 

その内容は、朝廷の許可なく通商条件を結んだ幕府を糾弾※5するもので、これを危険視した。

※5.糾弾とは、不祥事や汚職などの疑惑をもとに非難・咎め立てし、職責を問い質す、という意味で用いられる表現。政治家や組織の幹部などの要職にある者が、地位ある者としてあるまじき行為を行ったとして、非難、批判、辞職要求などを行うことを指す場合が多い。

 

大老井伊が弾圧を敢行しました。
この、あおりを食らったにが慶喜でした。
安政6年(1859年8月27日)に、慶喜は幕府より蟄居謹慎の処分を受けました。
密勅とは関係なく、まさにトバッチリでした。

 

                       ▲映画「桜田門門外」のオープンセット

 

安政7年(1860年3月3日)桜田門外で水戸浪士によって大老・井伊直弼が討たれた。

 

 

井伊直弼が暗殺されたため、安政の改革が取り止められて、復帰した慶喜は、文久2年7月6日薩摩藩の後押しで、将軍御見識に就任します。

1864年3月将軍御見識を辞職して、朝廷から禁裏御守衛総督※6(きんりごしゅえいそうとく)に任命されます。

 

 

任命された徳川慶喜は、御三卿のため兵力を持っていないため、兵力調達が急務となり、渋沢栄一が一橋家領内を巡回し農兵の募集で手腕を発揮した。

※6.禁裏御守衛総監督とは、幕末に幕府の了解のもと、朝廷によって禁裏(京都御所)を警護するために設置された役職のこと。任命された徳川慶喜は、大阪湾周辺から侵攻してくる外国勢力に備えるため摂海防禦指揮(せっかいぼうぎょしき)と言う役職にも同時に任命された。

 

 

御所警備の最高責任者の要職ですが、これにより慶喜は京都に留まります。
京都で”蛤御門の変“が起き長州征伐のさなか第14代将軍 家茂の死。

 

 

 

慶喜ついに第15代征夷大将軍になる

家茂の死は公表されなかったが、早急に後継を決めなければならず、家茂の子亀之助は幼く、この難局は乗り切れず却下、他には尾張徳川 徳川慶宣・紀州藩主 松平茂承・水戸藩主 徳川慶篤でしたが、推したのは慶喜でした。

 

 

こんな型で将軍になっても思い切った政策は実行できないだろう。
できれば諸大名に押される形ちで将軍になりたいと考えていたけど、家茂が亡くなって4ヶ月以上もなっていて、これ以上将軍の座を開けることはできませんでした。

 

 

慶応2年(1867年12月5日)第15代征夷大将軍就任します。
慶喜30歳です。

 

 

渋沢栄一は慶応2年(1866年12月)主君の慶喜が将軍となったため幕臣となり、パリで行われる万国博覧会が1867年に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟・徳川昭武(後の水戸藩主第11代当主)の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書きを得て、フランスへと渡航する。

 

 

慶喜は政治情勢を考え、大政奉還※7をなし遂げた。維新後は明治35年(1902年)、公爵を授けられ、大正2年、77歳で没した。

※7.大政奉還とは、政権返上を慶応3年10月14日(1867年11月9日)に明治天皇へ奏上※8し、翌15日に天皇が奏上を勅許した事。

 

 

まとめ

慶喜でなかったら、江戸の町が火の海になってたかもしれない。
徳川幕府 武家政権も終わって、 新しい世の中のいち早く変えた名君じゃなかっただろうか?

 

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