美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

おつやの方 岩村城

おつやの方は信長の野望のため政略結婚で岩村遠山氏に嫁ぐ

投稿日:2021年7月2日 更新日:

 おつやの方何歳岩村城主・遠山景任嫁いだか記載がないので不明です。

また、遠山景任の方も不明なので、景任の方でおおよその推察はできます。

 

 

推測でいうと、遠山景任が父・景前が没したので跡目を継いだのが、弘治2年(1557年)20歳の時でした。

 

 

嫡男であった景任が跡を継いだのが、まだ若かったことから遠山七頭の中に従わぬものがあって後継者争いが起こった。

 

 

これに対して武田氏が東美濃に派兵して調停し、その後ろ盾を得た遠山景任当主となった。

 

 

僕が思うに、そこから信長がおつやの方を政略結婚で近づいて来たような思いがします。

                        ▲イメージです。

 

そうすると結婚したのは弘治4年永禄元年頃ではないでしょうか?
景任が亡くなったのが元亀3年(1572年)9月21日だから35歳です。
結婚生活は約12・13年続いたと思います。

 

 

武田信玄が遠山岩村氏は、武田氏に臣従していたが、信長叔母おつやの方遠山景任の元に嫁いでからは、織田氏寄りになってきたため、信玄は交通の要の恵那郡を自分の配下にしようと思って仕掛けてきた。

 

 

上村合戦から岩村城の戦いに発展していった

元亀元年(1570年)12月、甲斐と信濃を地盤とする武田氏の軍勢が、徳川氏の本拠地である三河を攻めようとして進軍している途中で、東美濃の豪族遠山氏の領地・恵那郡上村(現・恵那市上矢作町)へ侵入したため遠山氏徳川氏連合軍で戦かった合戦のことを上村合戦という。

 

 

この戦いは武田軍が勝利したものの、その後、織田信長から派遣された明智光廉※1(三宅長閉斎)の軍勢と小田子村(現・恵那市上矢作町小田子)で戦い信濃の伊那郡へ撤退させた。

※1.明智光廉とは、俗伝では、明智光秀の叔父とされる、明智光廉が三宅長閉斎と名乗っ他とも言われる。一説には父の名を三宅出雲。

これを小田子合戦という。

 

 

元亀3年(1572年)8月14日、岩村遠山氏として東美濃(東濃)で勢威を振るった岩村城主の遠山景任が子供がないまま病死した。(一説には姫らしきがいた、秋山虎繁との間にも男の子がいたという説がある)

 

 

織田信長は、異母兄の織田 信広、河尻秀隆(のちの岩村城主になる)らを派遣して岩村城を占拠し、信長五男の御坊丸(後の織田勝長本能寺の変で兄・織田信忠と共に討ち死にする)遠山家養嗣子に据えた。

 

 

しかし、御坊丸は幼児であったため、実際の城主は信長の叔母で遠山景人の未亡人のおつやの方が努めた。

 

                          ▲イメージです。

 

これが井伊直虎の女城主と時期をずらした、岩村の女城主です。

 

 

武田信玄の西上作戦の遠征始まる

 元亀3年10月3日、それまで諸勢力に向けて盛んに上洛することを宣伝していた、武田信玄が西上作戦を開始したことから岩村城合戦が火蓋を切った。

 

 

元亀3年(1572年)12月、秋山虎繁は信玄の命を受け武田軍を率いて東美濃の遠山氏の本拠地である岩村城を攻めた。

 

 

城主の景任は死去していたが、未亡人・おつやの方は養嗣子として迎えていた御坊丸を城主として、織田軍からの援軍が来るまで徹底的に抗戦することを主張した。

 

 

城兵も御坊丸を守り立てて防戦につとめ、秋山勢を城に寄せつけなかった。

 

 

ところが、岩村城将の織田掃部は秋山虎繁との戦いをかわすため、おつやの方と敵方・秋山を結びつけ、御坊丸の教育を条件に和睦を申し込んだ。

 

 

これに対して、おつやの方猛反対したというが、城内も次第に窮乏状態となり、病死・餓死する者も出てきた。

 

 

ここに至っておつやの方は武田軍の秋山の降服勧告に従い城を開城した。

 

 

これを伝え聞いた信長は、大いに怒ったが、武田氏の勢いは強く、岩村城には秋山虎繁が入り武田氏の最前線を担うことになった。

 

 

間もなく、武田信玄が死去したことで武田軍は兵を甲斐に返し、信玄の跡は勝頼が継いだ。

 

 

武田軍が撤退したことを確認した信長は、二万の兵を率いて岩村城を攻めたが勝敗はつかなかった。

 

 

そして天正三年(1575年)長篠の戦いで武田勝頼が敗走すると岩村城は孤立化し、信長の嫡男・織田信忠を大将とする二万の兵で岩村城を攻めた。

 

        ▲織田信忠が岩村城奪還のため陣を貼った丘(いまは大将陣公園となっています)

 

秋山虎繁を主将とする籠城軍は半年に渡って抵抗を続けたが、ついに兵糧がつき、信忠軍に攻め落とされ捉えられた。

 

 

 

捉えられた秋山虎繁とおつやの方らは長良川にて処刑された

哀れ信長に翻弄され、挙げ句の果て援軍も来ず、泣く泣く武田氏の武将・秋山虎繁と4度目の結婚をしてまで御坊丸を守ってきたのに、この仕打ちとは許し難い。

 

 

捕らえられたおつやの方らは長良川の河原で、逆さ磔にされた「実の叔母​​を、このような非道の扱いをするからには、必ずや、その報いを受けようぞ」と絶叫して果てたという。

 

 

七年後の天正十年六月二日に信長は明智光秀によって本能寺の変で横死※2する。

※2.横死(おうし)とは、事故・殺害など、思いがけない災難で死ぬこと。不慮の死。非業の死。

 

 

​御坊丸はというと武田氏の人質から解放されて天正九年十一月に安土に戻り、名を織田勝長となって犬山城主となったが、本能寺の変で兄・織田信忠と共に討ち死にする。

 

 

岩村城を奪還した河尻秀隆は、その戦功で岩村城主となったが、本能寺の変の十六日目に武田の残党によって殺される。
これもおつやの方の恨みか?

 

 

 

-おつやの方, 岩村城

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