美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

おつやの方 岩村城 織田信長

岩村城の女城主「おつやの方」は織田信長の叔母!家系図から見る

投稿日:2018年2月21日 更新日:

美濃国岩村城の女城主・おつやの方は織田信長の妹お市の方と共に絶世の美女として生まれが、年下の叔母さんである。

 

 

田信長の叔母さんであるのお直の方またはおつやの方は、愛西市の勝幡城(信長の生まれた城)で、信長の祖父織田信定(1538年没)の末娘として誕生しました。

 

 

要するに信長の父信秀の妹で兄妹です。

それも信長より年下の叔母さんである。

 

 

      
          ▲おつやの方と信長が誕生した勝幡城

 

 

ハッキリとした年の記録は残っていません。
織田信長は1534年生まれなので信長の方が年上と考えられています。

 

 

   
▲信長・お直の方が生まれた勝幡城趾

 

 

おつやの方の最初嫁ぎ先美濃斎藤龍興重臣で、日比野下野守清実(岐阜安八城城主)だが1561年(永禄4年)に戦死。

 

 

スポンサーリンク

 

 

何歳で嫁いたかわかりませんが、18歳の時に夫をなくしています。
2度目は、信長に使える武将でした。

 

 

●織田家の家系図

 

 

岐阜に戻ったお直(おつや)の方は1562年甲斐の武田に対する前線基地ともなる、美濃国岩村城遠山景任遠山景任は戦国時代の武将・大名。岩村遠山城氏当主。)へ3度目の政略結婚のため嫁いで行った。

 

(※当時は織田と武田は同盟関係出会った)

 

 

※(遠山景任は戦国時代の武将のURLをクリックしてください。歴代の岩村城主が記載してあります。また、おつやの方の記事も書いてあります。)

※上記のお直(おつや)をクリックしてください。おつやの方の記事が書いてあります。

※上記の岩村遠山城主をクリックすると岩村城の地図と登城口から頂上までの案内が書いてあります。

 

 

1572年(元亀3年)武田信玄の命を受け秋山信友が岩村に侵攻、上村合戦 ※1となり景任は戦死した。

 

 

その時におつやの方は岐阜へ戻れば戻れたでしょうが、岩村に馴染み親しんだ岩村城に残ることとしました。

 

 

遠山景任には子供がいないまま1572年(元亀3年5月)に、信長の五男御坊丸(後の織田勝長)を家督相続人となる養子として迎える。
御坊丸は幼く、そのためお直の方(おつやの方)が当主の座を引き継ぎ女城主となった。

 

 

女城主といえば2017年の大河ドラマから連想する井伊直虎を思い浮かべますが、女城主は井伊直虎だけではありません。城を守るため武田軍と戦い武田軍の重臣に身を捧げ、信長には無残にも岐阜で磔刑された女城主おつやの方、戦国の世に無情にも人生をもて遊ばれた悲劇と言ってしまえばそれまでだが、波乱の人生だったような気がします。)

 

 

女城主として暫くは平穏な日々を過ごしていましたが、1572年10月武田信玄の西上作戦が開始した。

 

 

信玄はそれまで各地に上洛する旨を喧伝していたが、実際の行動は山県昌景秋山虎繁(俗に信友)の別働隊2,500余騎を三河に向かわせ、自身も遠江に出陣するという、徳川家康の領土を奪取することを主目的であった。
その途中12月22日三方ヶ原の戦いが起こり信玄は家康を破る。

 

 

    
▲武田信玄                                            ▲徳川家康

 

 

上村合戦※1後、再び秋山虎繁が岩村城を侵略するために攻めて来ました。
おつやの方は領民たちと共に長い籠城を覚悟して戦い、信長の援軍を待ちながら3ヶ月の間立て籠もりました。

 

 

その間も信長に使者を送り、また敵の情報を得るために乱波を放ったりと城主として見事な手腕を振るったそうです。
当時の信長長島一向一揆などで道を阻まれ、なかなか岩村 までは援軍を出せませんでした。

 

 


▲難攻不落の岩村城趾

 

 

スポンサーリンク

 

 

岩村城は難攻不落そのものでした。
その状況を知った武田軍秋山信友は、和議を申し入れてきたのですが、その内容は「おつやの方」にとってはとても受け入れないものでした。

 

 

開城すれば御坊丸領民、城兵の命を守る、その代わり秋山信友の妻になれというものでした。

※上記の岩村城は難攻不落をクリックすると、岩村城の案内が出てきます。

 

 

おつやの方は武田の武将との結婚は信長を裏切るということになり、城も取られることになることを。

 

 

苦渋の決断で開城を条件として城主御坊丸の命を助けること、領民・城兵の命を守るのが、女城主の絶対守らなければならない条件だった。

 

 

おつやの方は信玄の動きに呼応し、同年11月14日、岩村城武田方のものになり、信玄は下条信氏※2を送り込んだ『当代記』。

 

 

信玄はこの女城主(おつやの方)の裏切りによって作戦を変更し、三河から東美濃へ入って信長を攻める作戦をとった『三河物語』。

 

 

以前に「おつやの方」と敵将「秋山信友」は、信長の子奇妙丸と信玄の子お松の方の婚姻の使者として岩村城で顔を合わせていて、当時は景任の妻として会っているだけで、それ以上でもなくそれ以下でもない顔合わせであった。

 

 

1573年2月に岩村城を開城した。
おつやの方開城したことで、信長を裏切って、武田方になったのです。

 

 

1573年(元亀4年)3月6日信玄は美濃に秋山虎繁を送り、岩村城城主とした。
この時におつやの方と秋山虎繁との婚姻が行われた。

 

 

御坊丸は甲斐に送られた。

 

 

同年5月13日武田信玄病死したため、武田軍は撤退。

 

 

その2年後の1575年5月の長篠の戦い武田軍織田軍に敗北するまでの間、秋山信友とおつやの方は岩村の領民のため、岩村を守り、城の普請を進め、織田信長の侵攻に備えていました。

 

 

織田信長軍は1575年(天正3年)長篠の戦い武田軍を敗る、織田信忠らが岩村城を包囲。
武田勝頼は岩村城を援護するべき出陣したが、勝頼が着く前の11月21日、岩村城は落とされた1575年(天正3年)

 

 


▲有名な「長篠の戦い」の長篠城趾

 

 

信長秋山虎繁らを赦免するとみせかけ、礼に来たところを捕らえ、長良川近くで磔刑にした。

 

 

の理由は、長篠城奥平信昌徳川家康に寝返った際、武田勝頼奥平信昌の妻にしたので、その報復だといううことだった『甲陽軍艦』。

 

 

おつやの方信長に捕らえられて逆さ磔で処刑された。
一説には信長が裏切られた鬱憤をを晴らすために自ら斬ったとも言われる『当代記』。

 

※1 川上合戦:永禄11年(1568年)徳川家の人質として松平源三郎(松平康俊)が武田家に送られたが、元亀元年(1570年)、松平源三郎が甲州を脱出した。

松平源三郎秋山虎繁の預かりであったため、元亀3年(1572年)12月に秋山虎繁は武田軍2500余騎を率いて東美濃の遠山氏の一部を通って徳川の領地の奥三河へ向かおうとした。

また遠山氏は以前は武田氏に臣従(臣下として主君につき従うこと)していたが、この頃は織田信長の叔母のおつやの方岩村城主となっており武田軍とは敵対関係にあった。

この時武田軍西上作戦中であり、三河国には山県昌景が、飛騨国には木曽氏の山村良利が、遠江国には武田信玄率いる本体が侵攻を行なっていた。

 

※2 下条信氏:戦国武将。下条は下條ともかく、父は下条時氏。信濃小笠原氏、のちの甲斐武田氏の家臣であり、武田晴信(信玄)義兄弟、信濃吉岡城(伊那城)の主。
兵庫助、伊豆守。正室は武田信虎の娘。
子供は信正、頼安。

 

 

スポンサーリンク

 

 

 

-おつやの方, 岩村城, 織田信長

執筆者:

関連記事

岩村城下町の中心に枡形地形がある祥雲寺(庚申堂)の三基石仏。地元最古の石像物。

岩村名物「水半漬物販売店」の前の桝形地形、岩村町の中心場所。 そういえば岩村警察があった、当時商店街にはネオンサインがキラキラと灯っていた。   その反対側には昔から「八日ゑびす」をやるお宮 …

美濃国「岩村城」は標高717mの山城で鎌倉時代に築城された日本100名城の一つ

 源頼朝の重臣加藤景廉を祖とする嫡男景朝が標高717mに岩村城を築城する。     時は平治の乱※1(1150年)保元の乱※2の頃(1156年)の東濃地方は野武士や盗人が奔放※3に …

尾張藩城主・第12代徳川斉荘のお姫様が大給・松平岩村藩に嫁ぐ花嫁行列

  名古屋城主・歴代 ①初代城主/徳川義直(徳川家康の9男) ②二代城主/徳川光友(初代義直の長男) ③三代城主/徳川綱誠(二代目の子で6年間の城主で46歳で死去) ④四代城主/徳川吉通(綱 …

日本三大山城の岩村藩から老中を出し、岩村城下町の護り固く徳川時代を偲ばれる。

岩村城下町の街路の軍事的施設には、桝形地形もあり木戸も随所に設置され、藩主邸には地下室もあった岩村城。      岩村藩から老中を出した美濃国岩村城、まず城下の辺緑※1(へんえん)に3ヵ所の …

信長は難攻不落の東美濃・岩村城を落城して家康に宛てた 黒印状がでてきた

   元亀3年(1572年)8月14日、平安時代末期から美濃国東部を支配していた、遠山氏の宗家岩村城主・遠山景任が病死した。     岩村遠山氏は以前は信玄に臣従していたが、織田信 …

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。