現在ある岩村城下町は天正4年ごろ、信長の臣・河尻慎吉によって移動計画が実地されました。
城下町とは、領主の居城を中心における都市の形態の一つであって、それを移転させる決断は大変だったろうと思う。
遠山氏の思い描いた城下町を南に現在の城下町に移動することは何がそうさせたんだろう。
遠山氏は支城が十八城があっから軍事的には問題はなかった。
城の防衛施設としての機能と、行政都市・商業都市としての機能を持つために武田軍を破った織田信長の命で河尻慎吉が、本格的な兵農分離を意図して、武士を城下に強制移住させるとともに、市街に楽市・楽座を設けて商工業の発展を活発にしたかったのではないか。
岩村城下町の変遷
城下の移転
岩村城の戦いは、天正3年(1575年)5月21日、武田勝頼は長篠の戦いにおいて織田信長・徳川家康連合軍に大敗、その後織田・徳川による武田攻めになった。
信長は嫡男・織田信忠を総大将として派遣して岩村城を奪還した。
信長の臣・河尻慎吉が城主になったのが天正三年、天正のはじめ、河尻慎吉が城下町を冨田村から岩村に移したと古書に記されている。
岩村が真の城下町として経営の緒についたのはこの時からで、今から四百五十年頃前である。
設計された岩村城下町の道路、敷地が完成された後、大円寺村・冨田の官舎を移し、商人住民も半ば強制的に移住させ、なお、各地から商人・職人等を集中させ、ここに現在の岩村町の基礎は造られた。
▲城下移転のイラスト
『岩村府誌』に「城府北郊を大円寺ち云う。けだし※1古大寺の址也。因ってなづく。乃ち冨田部落にして官舎市店皆此にあり、今地名を古市場と云う是也。後世城市を移すに及びて一式となる」
※1.けだしとは、考えてみるのに。思うに。と云う意味
とある如く、現在冨田保育所付近に古市場の地名が残っている。
これに対して同じ道路を西進すると岩村城下に現在・新市場の地名があり、また、旧大手口に沿ってあったと思われる侍の元屋敷に対して、現在・新屋敷の地名があって、城下移転を物語っています。
他の藩の一例
徳川初期に作州津山藩主・森氏が行った。
強制的村落移転(城下町移転ではない)は、各藩が名目上の石高よりも買収石高を増加させる目的で耕地の拡張を實行した一つの表れで、これは相当多くの村々から平地より不毛の山麓荒蕪の地に新聚落を作らしめたのである。
岩村城下町の移転の場合の特色
沃野※2の冨田から水利不便な岩村へ移り、若干この耕地拡張ぼ理由もあったかもしれrないが、それよりむしろ次の軍事的地理t的理由だと考えさせられる。
※2.沃野(よくや)とは、地味が肥えた平野。の意味。
戦国時代は日本各地とも軍国非常の時で、築城は著しく堅牢大規模なものとなり、目甚だしく兵学化され、戦国時代ラストの英雄・三羽烏たる信長・秀吉・家康の時代に殆んど日本各地の城が新戦術、新築城法によってお目見得したのであって、城下町もこの頃から、全く一つの聚落形をなして来たのである。
したがって、この3代60余年間に在来の旧式な、防禦力の少ない新装をこらして各地に出現したのであって、岩村城もこの間に何等の形に於いて新鮮味をみせたのである。
即ち城下の移転(同時に地域の拡張修補)と云う大事業がこれである。
天正元年に甲州の武田軍は信州方面より攻略して岩村城を攻撃しとる、天正3年には織田軍の臣・河尻慎吉が武田軍を破って岩村城主となり、ここに戦禍収まり、兵学・築城の進歩と、本城攻撃の際の實地体験とにより、城下を移したのであろう。
直接の理由としては、旧大円寺城下は、元亀3年武田軍のため焼き払われた事、また、大円寺城下は土地開潤で軍略上適当な事、城下と城との距離大なること、冬季北の季節風を受け易いことなどが考えられる。
一方、今の岩村城下の長所を挙げると、交通上の要点たること、軍略的に理想的な谷口盆地で四囲に丘陵山地をめぐらし、小さくしてよくまとまりがある。
自然の要害をなすこと、城郭地の拡張は岩村側に多く余地を存すること、土民分離上侍屋敷として理想的な河北の大地と、商人町として都合のよい河南の平地があること、本丸までの距離は、城山山麓の地点からいうと、大円寺からは1.5粁で、岩村からは1粁である。
城下の中心地点からいうと前者は3粁、後者は1.5粁である。
大円寺の方は城郭地の一部としての城下と居城とが一朝有事の際切断される恐れがあるのである。
城下の都市計画すなわち町割
現在の岩村町の道路網、用水路も殆んど城下移転のとき、河尻慎吉の手によって天正4年頃なされたらしい。
▲町人街に造られた天正疏水
道路は地形と軍略上から坂の多い梯形※3となった。
※3.梯形(ていけい)とは、はしごの形。一組の相対する辺が平行な四辺形。台形。とある。
先ず東から西流する岩村川を挟んで城山山下の森林や原野に富んだ河北の台地を侍屋敷とし、河南の低地を町屋敷とし、上町・本町・下町とし、それぞれ上横町・中横町_下横町の3つの通りに依って、町通りと侍屋敷を連絡させ、さらにこれに直交する直線の平坦大路馬場をおいた。
▲略図
この背後は藩主の菩提寺たる乘政寺の丘陵で、これを乗政寺山という。
上横町と下横町は、この第三紀丘陵の東西に延びて、新屋敷及び新市場の二條の侍屋敷地域を作り、馬場の両端に於いて連なるのである。
別に下町(今の本町4・5丁目)木戸外に南進の直線路柳町を造り、侍屋敷の飛地とし、下町の西は枡形から農村地域であった土手下(今の西町)に続くのである。
道幅は馬場3間半、本町通り3、間横町通り1間半、その他の間道は1間内外である。
町通りは上町木戸から下町木戸まで約700m(7町)馬場300m、新市場、新屋敷各250mである。
まとめ
岩村城下移転とその経営がいかに大工事であったかを知ると共に、武家の権力とその計画的頭脳に驚くのである。
勿論大体は当時一寒村であった岩村の踏分け道を基本として、これを拡張増補したであろう。
完成されるまでには数年の日々を要したことであろう。
城下町岩村は自然に村落の発展したものではなく、造らんとして造った意欲的な町です。
先ず幹線道路網が完成された後に、次第に商家や住宅が建てられもので、他の殆んどの集落が自然的、漸進的に且つ、無計画的に発展して遂に町となり市となったのとは、その成立の当初に於いて大いに趣を異にしている。