-
ガラシャの嫁ぎ先の細川家の家系図をみると清和源氏の流れを汲む血筋
2023/03/26 -ガラシャ
細川ガラシャが嫁いだ細川家は、加藤清正が中世城を取り込み改築した平山城で、清正改易後は細川氏が肥後熊本県の熊本城の城主で明治維新を迎えました。 また、今上天皇は父・明 …
-
ガラシャの夫・細川忠興の刀・歌仙兼定は美しくも恐ろしい剣だった
2023/03/20 -細川忠興
細川忠興といえば、妻・珠をこよなく愛した武将で知られている。 また、細川幽斎の息子で教養人・茶人として有名で利休七哲の一人に数えられる人物。 義父には、明智光秀、嫁に …
-
名刀「古今伝授の太刀」地蔵行平を細川幽斎が公卿烏丸光広に送った訳とは
2023/03/18 -細川幽斎
細川家伝来の名刀・「古今伝授の太刀」とは? 鎌倉時代に活躍した豊後国の刀工、行平の作。 この刀は、細身で反りが高く、小峰の刀身は平安時代から鎌倉時代初期の太刀の特徴である。 …
-
女城主おつやは降伏の条件で敵将に求婚された絶世の美女長良川で磔死
2023/03/16 -おつやの方
こんにちは岩村町出身の歴史好きの隆太郎です。 岩村町には、今から約830前の鎌倉時代からの岩村城の歴史が残っています。 例えば、加藤景廉が山上村の邑長と会って、思案 …
-
家臣団に嫌われるも徳川家康と本多正信との関係は良好だったは何故か?
2023/03/11 -未分類
本多正信は通称を弥八郎と呼ばれていた。 正信の父は本多俊正で、もともと松平家の重臣・酒井忠尚の下で働いていた、忠尚が謀反を起こしたために、共に家康と戦うこともあったが、永禄7年(1564年)9月に俊 …
-
徳川家康の次男・結城秀康は関ヶ原の戦い前に上杉景勝征伐の殿軍を務める
2023/03/03 -結城秀康
家康の次男・結城秀康は父・家康の母・於大の方によって、家康の異父の子の代わり秀吉の養子に出されてしまった不運な人だった。 結城秀康は武勇に優れた義の人だったのに、兄・信康が亡くなって …
-
徳川家康は江戸のまちづくりは水運・風水・鬼門を考えて江戸幕府を開いた
2023/02/27 -未分類
安土桃山時代の慶長5年(1600年)9月15日に、関ヶ原の戦いに勝った家康は慶長8年(1603年)に朝廷より征夷大将軍に任じられた。 ここで一つ確認をしてほしいことがあり …
-
織田信長が九死に一生を経験した金ケ崎の戦い殿を務めた池田勝正と光秀と秀吉
2023/02/24 -金ヶ崎の戦い
尾張と美濃を統一した織田信長は、足利義昭を擁立して上洛し室町幕府を復活させた。 この後、織田信長は京都に残ることなく本拠地である岐阜へと戻ります。 信長は領国を安定させる …
-
大給松平宗家は「十四松平」の一つ徳川家康は東美濃岩村藩を置いた
2023/02/19 -大給松平宗家
武家の家が発展するには、分家が欠かせない、例えば、室町幕府を開いた足利尊氏は、清和源氏の流れを汲み、足利(現・足利市)に地名の足利の姓で本拠を置いた。 でも、松平氏の場合 …
-
2023/02/13 -未分類
徳川家康の子供は。11男と5女がいて、うち4人は幼くして亡くなっていますが、残りの12人の子供の子供がいて、その子供達には子供がいる、いわゆる孫がいます。 正室の子・ …