美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

おつやの方 遠山景任の未亡人女城主

信長の叔母おつやの方と信玄の関係は?戦国時代彼女が悲惨な結末を迎えた訳は

投稿日:2020年12月30日 更新日:

  学生の頃、この岩村城本丸は悪ガキ達の遊び場で、高校の時タバコは吸うは酒は飲むはチャンバラごっこはするは、昔は雪が多かったので冬は手製のソリで下まで滑ってたし、藩主邸の近くではスケートをやって遊んでいた記憶があります。

 

 

こんな本丸跡ですが、夏には本丸に小屋を造って住み込んでいた人がいたので、城主と呼んでいました、夏でも夜になると、寒いので焚き火をしワイワイやってました。

 

      ▲ここは天守跡、ここに小屋があったなぁ〜、ここで焚き火をした。

 

いい時代だったんだな〜
それが歴史ある城跡とも知らずに、学生の頃には歴史の事など興味もなかったし、今から思えば、日本史の先生が熱心に教えてくれていた、今から思うともったない事をしてた。

 

 

鎌倉時代にできた岩村城の歴史

築城は文治元年(1185年)築城者は源頼朝の重臣・加藤景廉が遠山荘を頼朝から任されたことが始まりでした。

 

実際に築城したのは嫡男の加藤景朝、のちの遠山景朝今から2021年=1185=836年前に山城ができていた。

※加藤景廉・加藤景朝が城を築くブログがあります。興味ある方は、上記の加藤景朝をクリックしてください。

 

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日本に城が残っているが,この時分にできた城は少ないと思ってます。
いまも岩村町では、この二人神と祀ってある八幡神社武並神社で平安時代の衣装をきて「秋祭り」が毎年行われます。

※ここに岩村町の秋祭りを載せたブログがあります。興味のある方は上記の八幡神社と武並神社をクリックしてください。

 

 

おつやの方が女城主として活躍時代・挫折とき

この東美濃の地は東の岩村、西の大垣といわれるぐらい軍事、交通の要所で、戦国の世になると織田と武田の陣取り合戦に巻き込まれ、遠山氏最後の城主・遠山景任の時です。

 

その遠山景任に信長が年下の叔母である、妹のお市と同様の絶世の美女「おつやの方」の方を政略結婚のため送り込んだで結婚させた。

 

                           ▲おつやの方と姪のお市の方と共に絶世の美女

これが信玄と信長の戦いの火種となって、永禄元年(1558年)の頃から、甲斐の武田軍が進出、武田信玄の重臣であった高遠城主・秋山信友が岩村城を攻撃したため遠山景任は織田信長に援軍を求めた。

 

その時には、信長明智光秀を岩村城に差し向け、秋山信友を高遠城に敗走させた。

 

そんな明智光秀が遠山明知城で生まれたとか、言ってるけどそんなことは断然ない。

 

岩村城の分家の城が明知城苗木城などで、そんな城を光秀が交戦に来るはずがない、なぜそんな事をいうかというと、明智光秀が明知城に関係があるがかのように明知線のジーゼル列車にラッピングまでして走らせている。

 

明知城に行くと、光秀が使った生湯の井戸があるとかいってるけど、井戸はあるがセメントの井戸、遠くから来る観光客に恥ずかしいことです。

 

なぜかというと遠山氏明智氏紋所が全然違う。
こんなことは馬鹿でもわかる。

 

 

明知城をそんなに宣伝したければ遠山の金さん(実在の人物)を大々的に宣伝した方がよっぽど良いと思います。

※上記の遠山の金さんをクリックしていたたけば詳しいブログがあります。

 

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ここからがおつやの方の苦難が始まる

元亀2年(1571年)遠山景任が戦病死すると、信長の息子・五男の御坊丸を養嗣子としたが、わずか8歳であったため、景任の未亡人・おつやの方が実質の女城主となって岩村城を取りまとめた。

 

信玄は、この話を聞いて信長に岩村城を取られてしまうと思い、元亀3年(1572年)10月に大軍を引き連れて遠海の徳川家康を攻撃するために出陣し、再び秋山信友に岩村城を奪還せよと命じ同時に岩村城を攻めた。

 

岩村城は武田方に包囲されたが、おつやの方は必死で戦った、戦の最中信長に援軍を何度も要請するも、他の地方で緒戦※1で助けに来ることが出来ず、とうとうおつやの方は条件をつけて開城した。

※1.緒戦とは、はじめの戦闘。戦の発端となる戦い。

 

その条件とは、兵を殺さず御坊丸も殺さずという条件を出した。秋山寅繁の方はおつやの方と婚姻するという条件で降伏した。

 

 

元亀3年(1572年)遠山氏が1185年から続いたが約387年で途絶えた。

 

元亀4年(1573年)2月末に秋山はおつやの方を妻に迎え、翌3月に岩村城は落城した。
そのため岩村城は武田方の城になった。
長かった遠山氏の支配は、ここで終わりを告げた。

 

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この話をきて激怒した信長はついに戦いを挑んだ

天正3年(1575年)信玄は1月11日に三河侵攻、2月15日野田城を攻略ついで長篠城に入った。

 

4月15日駒場で信玄死去、そして5月21日長篠の戦いで武田軍敗北した後、信長の嫡男・織田信忠を総大将に岩村城を攻撃させた。

 

総大将信忠は岩村城の北西に位置する小高い丘に(今も岩村に大将陣公園としてある)陣を張って5ヶ月にわたる戦闘、援軍に駆けつけたいけど、武田軍が弱体化したため後詰めが間に合わず岩村城は陥落した。

 

岩村城開城の際、秋山虎繁・おつやの方の助命が約束されていたが織田方は、これを翻(ひるがえる)し、秋山夫婦ら5名が長良川河川敷で逆さ磔で処刑された。

 

おつやの方が最後の言葉として信長に、叔母である者まで処刑するのか?恨み辛みを言って必ずや呪ってやると言って処刑された。

※上記の呪ってやるという所をクリックして貰えば詳しく書いてあります。興味ある方はいてください。

 

                 ▲これが妙法寺にあるまくら塚供養塔(NHKで放送されました)

 

岩村城落城後の城下町移転

岩村城は織田方の城になり川尻慎吉、信長の臣が天正3年に城主となり、城主であった間、今までの城下町(富田地区)を現在の城下町に移転した。

※岩村城主となった川尻慎吉が城下町の移転をした詳しいブログがあります。興味ある方は上記をクリックしてください。

その時、岩村川左岸南側の左右にそれぞれ2本づつ4本の水路開削を造り、道路や用水など設備を整えてから商家等を建て都市計画で基礎を築いた、この用水を天正疏水といって400年経った、いまも家々の下を流れ生活のために役立っています。

 

                       ▲城下町の庭に流れている天正疏水

川尻慎吉が天正10年(1582年)甲斐に移封後は、森蘭丸(十三歳)が同年3月に城主となるも、おつやの恨み事が効いたか6月に本能寺で明智光秀の謀反によって信長と共に討ち死にをする。

 

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兄の森長可が城主になるが天正12年(1584年)小牧長久手の戦いで討死した。

 

その末弟森忠政が岩村城主となり、近世城郭に改築して城下町を整備した。
森忠政の信濃松代への移封後、秀吉の家臣田丸具忠が慶長4年(1559年)岩村城主となったが慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで東軍勝利のため家康に追い出された。

※上記の田丸具忠をクリックすると詳しいブログがあります。興味ある人は読んでください。

 

その後、大給松平家松平家乗が慶長6年に入封してきた。
2代続き、家乗が慶長19年没その後を次いで2代岩村城主・松平乗寿が寛永15年浜松城に転封。

※家乗の事が書いてあるブログがあります。上記の松平家乗をクリックしてください。

 

その後、寛永15年丹羽氏信が入り5代続いて、元禄15年(1702年)越後に転封した。

 

 

次に岩村城主は先の2代岩村城主・松平乗寿の孫である分家の松平乗紀が信濃小諸から2万石で入封、次の城主松平乗賢が幕府老中となって3万石に昇格以後松平は7代続き、最後の城主・松平乗命は正室に尾張名古屋城より釣姫を娶るも廃藩置県を迎える。

※最後の城主の正室となるも悲しい結末が、上記の釣姫をクリックして読んでください。

 

            ▲名古屋城より釣姫がお輿入れ

 

 

 

-おつやの方, 遠山景任の未亡人女城主

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