美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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岩村町の女城主の里!古地図を見ながら史跡を巡ろうーBの章

投稿日:2022年8月7日 更新日:

Aの章では職人の町、上町(本町一・二丁目)を紹介しましたが、Bの章では岩村城下町のメインの通りとなります。

 

 

こうして昭和初期の地図を見ると、岩村町は商店が多くあったんだな〜と、つくづく思います。

 

 

屋号はそのままでお店事態が移動したりしてる店もあります。

昔といっても昭和初期には発展してたことがよくわかります。

 

 

本町三丁目には芝居小屋があった頃は知らないが、僕が覚えているのは岩村町役場になってた。

 

 

料理旅館もあったんだ〜木村酒造場もあったんだ〜。
泉源・水半本店、別館など芸妓さんがいたんだ〜。

 

 

Aの章を見ていただい方はこの地図がどうして書かれたのか説明してきました。
それではBの章に入ります。

 

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岩村で見て頂きたい所

 

      ▲岩村町中心部をピックアップしました。

※上記のAの章を見る方はAの章をクリックしてください。
※上記のCの章を見る方はCの章をクリックしてください。

 

 

  ▲Bの章の1です。

 

  ▲Bの章の2です。

 

 

は近くだから一緒に説明

まず大将陣ですが、今はなんの変哲もないただの公園です。

 

遠山氏最後の城主・遠山景任の妻・おつやの方が夫亡き後、信長の子・五郎丸を養嗣子に迎えた。

 

 

幼い五郎丸に代わって女城主として城を守っていたが、ある時、武田軍の秋山信友が軍を率いて岩村城を攻めてきて開城させられ、その後、秋山とおつやの方は結婚、それを知った信長は岩村攻めを嫡男・織田信忠に総大将を命じて奪還するために陣を張った所大将陣となったそうです。

※上記の大将陣をクリックして興味ある方は、関連記事を読んでください。

 

 

いぼ神さんという所があります。
そこの石でいぼを擦るといぼが消えるという言い伝えがあります。
また、そこには女城主だったおつやの方の墓とも言われています。

 

▲いぼ神さんの近辺と大将陣公園内

 

 

 

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寺院の紹介

妙法寺

地元の人なら大将陣から山伝いに降り行けば妙法寺はすぐ下です。

山号は経王山または桃蕚(とうがく)山といい、承応二年(1653年)岩村藩主・丹羽氏2代の丹羽氏定により創立された、当地方では唯一の日蓮宗の寺です。

 

 

丹羽氏転封後は民間の寺となり、時の豪商の尽力により栄えた。
天保年間に火災に遭い全堂を失ったが後に大部分を修復した。

 

 

火中より搬出した寺宝や、苗木藩の廃仏毀釈により仏好寺から引き継がれた寺宝などが多数ある。

 

 

境内の「まくら家」は武田の臣・秋山信共一族を供養するためといわれる。

▲まくら家

 

 

 

山門の扁額の「不弐門」は頼山陽の書という。

▲妙法寺山門

 

 

浄光寺

浄光寺

遍照山浄光寺は真言宗大谷派(東本願寺派)の寺で、三河の人・内田裕正の開祖による寺です。

 

 

天正年間(1576年頃)信長の石山本願寺攻めの時の一向宗徒の一人、祐正は敵の包囲を脱して上州那和に下り、松平家乗の保護の下に浄光寺を創建した。

 

 

家乗(初代・岩村城主)の国替に従い岩村へ移り、城山の麓に寺を建立した。

慶安2年(1649年)現在の地に移転したが、再度の火災に遭い、明和6年(1789年)現在の置屋根式土蔵造の本堂を再建した。

 

 

堂内は極彩色の欄間、折り上げ格天井など、寺の風格を保っている。
顕如上人より賜った阿弥陀如来御影画軸など多くの寺宝がある。

 

 

余談だが、浄光寺住職8世・内田裕智の三女大奥で老女となった

※上記の浄光寺をクリックすると詳しい関連記事があります。また、大奥で老女をクリックすると詳しい記事があります。興味のある方は読んでください。

 

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盛巌寺

盛巌寺
久昌山盛巌寺と号し曹洞宗の寺、松平家乗が那和に在職中、父祖のために建立したもので祖父と父(松平真乗)の法名に因んで山号寺号命名した。

 

      ▲盛巌寺の山門

 

家乗が岩村へ転封の際この寺も当地へ移った。

次の藩主・松平乗寿が浜松城へ国替えのとき、寺は曽祖父・祖父・父の三代の位牌を祀ることを請い、許されて存続することになり、その後、豪商・松田自休等の努力により復興されて現在に至っている。

※上記の松平家乗をクリックしてもらうと、大給宗家の父・松平真乗の活躍した記事があります。興味ある方は読んでください。

 

 

本堂は、元禄8年(1695年)、二層の山門は宝永2年(1705年)の建立である。

 

 

 

この地方に七つの末寺があり、延享5年(1748年)「殿様へ御目見え席」の大目付告によれば、当寺は領内寺院筆頭である。

本尊は釈迦牟尼仏。

 

寺宝は釈尊涅槃刺繍軸、その他多数あり。

 

 

清楽寺

清楽寺
寺の開祖は町内現存の寺院中最古と言われ、正安元年(1299年)開山説がありますが確たる証拠なしです。

 

 

最初の寺の位置は城山の南麓で瀧を望む所にあり、瀧三井山と号したといわれる。

 

 

その後、大圓寺の末寺となり臨済宗であったと伝えられる。

江戸時代に入って、上町の木戸の傍に移り、城下町防備の一翼となった。

 

 

明治15年(1882年)山崩れにより寺院が倒壊したので殿町へ移り、更に昭和16年(1941年)現在地へ移転した。

 

 

現在は曹洞宗で、山号を興国山と称している。
本尊は十一面観音。

 

 

寺宝の十六善神画像は密教様式の優れた作である。
十王尊を祀る精霊送りは幽玄な盆行事で毎年8月15日に行われる。

 

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飯高観音

飯高観音(萬勝寺)

岩村ではないが岩村町と山岡町の境にあり、恵那市山岡町馬場山田の境内を構えている臨済寺妙心寺派の寺院です。

 

 

創建は不詳ですが、平安時代初期に開山のが始まりとされています。
日本三大観音の一つで、本尊千手観音菩薩は比叡山延暦寺の二世・慈覚大師円仁が自ら掘り込んだものと伝えられています。

▲本尊千手観音菩薩は比叡山延暦寺の二世・慈覚大師円仁が自ら掘り込んだものと伝えられています。一度は見ておくと良いでしょう。

 

 

一般的に日本三大観音とは、浅草観音・大須観音・津観音とされています。

 

 

その後、寺運も隆盛し境内には七面伽藍が建ち並び、最盛期には麓に12坊、寺領386石を領し、本堂は桁行12間、梁間12間の壮大な建物だったそうです。

 

 

しかし、元亀2年(1571年)武田信玄の美濃侵攻の兵火により多くの堂宇、寺宝、記録などが焼失し、その上岩村遠山氏の菩提寺・大圓寺も焼失、妙心寺派の高僧・希菴和尚も殺害されました。

 

 

東濃地方では屈指の初詣寺院と知られ、厄除けや災難除け、安産の守護としても広く信仰されています。

  ▲盛大に行われる節分祭

 

 

天正8年(1580年)に領主である明知遠山家の一族である、遠山利景萬勝寺の住職になると遠山家の庇護もあり、再興し元和元年(1615年)には概ね境内が整備されました。

※上記の遠山利景の萬勝寺をクリックしていただくと詳しい記事があります。

 

境内には岩村藩主・松平乗薀が宝永年間(1704〜1710年)
飯高観音堂は木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺、妻入、間口一見間唐破風向拝付き、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、向拝縣魚には天女、欄間部には龍、木鼻には獅子のt彫刻が施されています。

 

 

境内一帯は貴重なことから恵那市指定名勝に指定されています。
東海白寿三十三観音霊場(東海地方にある、ボケ封じのご利益がある寺院)第25番札所。

 

 

宗派:臨済宗妙心寺派。
札所本尊:千手観世菩薩。

 

 

 

庚申堂

庚申堂(祥雲寺)・高札所

かつての盛巌寺末寺の祥雲寺であり、境内に寛文5年(1665年)の供養碑がある。

 

 

延宝5年(1677年)藩主丹羽家の家中より庚申の本尊青面金剛像の寄進があって庚申堂となった。

境内に高札場がある。

下町の木戸の南(現在の柳町)に武家屋敷を設け、そこに足軽を住まわせ、木戸の守りと共に高札場の管理にあたらせた。

 

 

藩主は領民取締りの各種ご法度を公布、それを高札場に提示して領内に知らせた。

      ▲庚申堂と高札場

 

 

天爆山

天爆山

美濃岩村藩が生んだ幕末の儒学者・佐藤一斎が命名したとされている。
嶮岨な山で山中には奇岩・鷲岩がある。

 

 

麓には滝があり天爆の名がでた所で不動の滝という。

幽邃の滝(ゆうすいの滝)をなしここに不動堂が建てられた修験者の道場とされた。

 

 

創建は不明であるが、延享4年(1747年)霖霓(りんげい)の著「滝不動堂再建記」に記されている。

 

 

天爆山は、佐藤一齋「天爆山記」の名文を書いて一躍有名になった。

頂上に登る径の随所に石仏があり歩行者の心を和ませてくれる。

 

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巌邨神社

巌邨神社
承久3年(1221年)に起きた承久の乱は、後鳥羽上皇と鎌倉幕府の戦いで後鳥羽上皇と公家方が敗北した。

 

 

忠臣の一人である、一条宰相中将・藤原信能は鎌倉幕府に捕らえられて、岩村城主の遠山景朝に預けられ、この地岩村町の相原で処刑された。

    ▲通称・若宮さん:正式名は巌邨神社

 

 

邑人はこれを哀れみ、小社を建て若宮社として祀った。

明治13年(1880年)明治天皇の中山道巡幸の際、勅使を差し遣わされ祭祀料を賜った。

 

 

翌年社号改称の指令で巌邨神社と称し、昭和三年(1928年)正三位贈位の恩命があった。

 

 

現在、祭典は毎年8月の第一土・日に行われます。(ただし、今年令和4年はコロナの為祭事のみになってしまいました。

 

 

 

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