岩村城(別名 霧が城)は日本三大山城の中でも一番高い標高717mです。
幼き頃は歴史も何も知らず、ただお城山と言って「ソリ」遊びをしたり棒切れを持ってチャンパラをしたり、学校から冬場のストープの焚きつけにする杉の葉拾いとか、夏の夜なんか寒いので焚き火をして暖を取ったりとかいろいろの思い出があります。
いま歴史を勉強していると偉大な岩村城ということがひしひしと感じられます。
お城の下には小学校その下には県立高校があった。
また天正時代まで城下町が富田地区にあったことすら知らなかった。いまの町並みに城下が移転したのは天正の戦国時代だった。
難攻不落の城、敵が攻めて来たら蛇骨を霧ケ井戸に投げ込むと‥たちまち山城一面になるという言い伝えがある岩村城。
霧が出て周囲を覆い隠すという謂れがある。別名「霧ヶ城」ともいう。
岩村城のマップはこちらを参考にしてください。
▲⓰出丸から見た、⓯本丸を支える石垣。北には⓮「埋門」東には⓭「長局埋門」上には本丸跡があります。眺望も抜群です。
▲標高717mでの眺望も抜群の⓯本丸趾
日本三大山城は、他に奈良県大和の高取城と岡山県備中の松山城があります。
この岩村城の歴史古く【 現在2019年(平成30年)ー1185年(文治元年)=834年前に築城 】されました。
源 頼朝が全国に守護・地頭を置いた時、功績のある重臣であった加藤景廉にこの地、遠山荘の地頭に補せられた。
加藤景廉は伊豆、備前、甲斐、木曽、遠江他にも荘園を賜った。
遠山荘の広さは恵那郡から木曽の一部に及ぶもので、岩村を、その本拠とした。
加藤景廉は頼朝の信任が厚く側近として鎌倉にいたため、長男の景朝を遠山荘に送った。
加藤景朝は岩村に居を構え、加藤姓を改め遠山姓とし築城し遠山氏の初代遠山景朝※1が城を造った。
加藤景廉が岩村へ来た、伝記が書いてあります。興味ある方はクリックしてください。
▲腰掛け岩に座る加藤景廉 ▲源 頼朝から長刀を賜る景廉
※1 平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、美濃国遠山荘の地頭で藤原利仁の流れを汲む加藤景廉の長男。
父親の加藤景廉は源 頼朝の信任厚く鎌倉幕府成立後に御家人となり、各地に荘園を与えられ、その荘園の中で美濃国恵那郡の遠山荘(現在の岐阜県恵那市と中津川市の大部分と瑞浪市の陶地区)を長男の景朝が相続して地頭となって、遠山氏を称し岩村城を本拠地として統治した。
当初は加藤太郎と称したが、のちに遠山左衛門尉景朝と称した。
余談だけど遠山左衛門尉景元(通称遠山の金さん)は末裔、知行※2500石の岐阜県恵那郡明智遠山氏の分家の6代目にあたる。,
父は長崎奉行を務めた遠山景晋、母は榊原忠寛の娘。
※2知行とは、日本の中世・近代において、領主が行使した所領支配権を意味する歴史概念。平安時代から「知行」の語が使用され始め、以降、各時代ごとに「知行」の意味する範囲は変化して行った。日本の歴史上の領主はヨーロッパの農奴制における領主のように無制限に所領の土地と人民を私有財産として所有したのではなく、徴税権・支配権にかかわる一定の権利義務の体系を所有した存在であった。この体系が知行であり、日本史における領主階層のあり方を理解する上で、知行の概念の理解は欠かせない。
遠山氏の最後になった城主遠山景任の正室おつやの方,女城主(織田信長の年下の叔母・政略結婚)
それから岩村城主が何代も替わった。(岩村城主をクリックして歴代の岩村城主をみてください)
徳川時代になって大給松平家→丹羽氏→大給松平家で廃藩置県を迎えた。
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お城山の案内
岩村町城下町を東へ登って行くと岩村城址へ行くアクセス案内看板があります。
この案内板に従って登ってください。
岩村町はNHKの『半分、青い。』のおかげで観光客が多数来てます。そこで早めにと思って4月22日に「石室千体仏」へ行った後、岩村城へ登ってきました。この『半分、青い』の放送終わりました。
新緑眩しい樹木、昔の人はこの坂を日本刀を腰に差して毎日毎日登城してたんだと感心しながら登っていくと、次から次にカップルやグループの方が息を弾ませながら登ってきました。
(車でも登れるのになぁと思いながら、一緒に会話しながら登りました。)
石室千体仏のことが書いてあります。またNHKの『半分、青い。』のURLもあります、半分と青いは別々の記事が書いてあります。興味のある方はクリックしてください。
▲この案内に沿った動画を身てくだい。
先ずは下田歌子勉学所を通り越して藤坂に向かって登ります。
▲ここが勉学所です。(下田歌子の記事は後日載せます)通り過ぎて藤坂へ
❹藤坂
▲岩村城大手の登城道のうち、藩主邸から一の門まで続く急な坂道は「藤坂」と呼ばれています。
加藤景廉の妻「重の井」が輿入れの際に、生まれ育った紀州藤代村から持参した種から育てたと伝える、フジの大木があったことがその由来です。
▲藤坂を通り登って行く。
❺初門
▲直線的に伸びる登城坂で、この部分だけが行く手を遮るように鉤の手に大きく曲げられている。
有事の際には、ここに臨時の門を遮断するようになっていたため「初門」と呼んだという。岩村城の最初の関門です。【ここに再現CGビューアがあります。岩村城を復元したCG映像がみれます。】
❻一之門
▲二層の櫓門で、大手一の門とも呼ばれている。城に向かって左側には単層の多門櫓が構えられ、右側の石垣上には石塁が土塀で厳重に固められていた。全面左側には石塁が張り出しており、死角から敵が近づかないように工夫されている。内側には番所が置かれていた【ここに再現CGビューアがあります。岩村城を復元したCG映像がみれます。】
▲いまにも崩れそう〜恵那市は何をやっとんだ〜。こんな歴史ある城山を。恵那市は岩村城で持っとるのことを肝に置いて。整備すること。
❼土岐門
▲岩村城第二の門で、内側は馬出状の曲輪になっています。絵図では薬医門または四脚門として描かれています。土岐氏を破ってその城門を奪い移築したという伝承から、この名がついたと言われています。廃城後に岩村町飯羽間の徳祥寺の山門として移築されています【ここに再現CGビューアがあります。岩村城を復元したCG映像がみれます。】
▲徳祥寺は恵那三十三霊場の21番札所です。
❽畳橋
▲大手の入り口は、高石垣と枡形門、三重櫓によって厳重に固められており、全面の空堀にL字形に架かる木橋を渡って内部に入るようになっていました。床板を畳のようにめくる事ができたことから、畳橋と呼ばれた【ここに再現CGビューアがあります。岩村城を復元したCG映像がみれます。】
▲畳橋を渡ると、このような道に出る。
❾追手門・三重門
▲追手門は、畳橋から棟門を潜り直角に右に曲がって櫓門に入る枡形門です。脇には、畳橋を見下ろすように三重櫓が構えられていた。三重櫓は岩村城唯一の三重の櫓で天守に相当し、城下町の馬場と本通りはこの櫓を正面に見るように設定されていました。
※馬場とは乗政寺の前です。
▲いわむら観光マップのCGより流用より。
追手門は、櫓門と棟門を直角に組み合わせた外枡形門です。前面に架かる橋は、敵が攻めて来た時に畳をあげるように橋板取り外すことから畳橋と呼ばれた。
場内唯一の三重櫓は、一の門を突破し追手門に迫る敵に強力な射撃を防御の要です。
城下町から城を見上げると最もよく見える場所にあり、天守の役割も果たしていました。
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❿霧ガ井
▲岩村城の別名は「霧ケ城」と言います。地元の人は通称霧ケ城と呼んでいます。この井戸の由来は、敵が攻めて来たとき、城内秘蔵の蛇骨をこの井戸に投じると、たちまち霧が湧いて城を守ったという。蛇骨は二の丸の宝蔵に収蔵されており、虫干しをした記録が残されています。
⓫八幡神社
※一言。もうちょとアチコッチの看板や傷んでいる登城道路や草を綺麗にして、折角遠路から来てもらえる人達に感謝の気持ちを持つように恵那市・観光協会。牧之郷に眠る「加藤景廉公」もなんじゃ〜恵那市は と言ってるような気がする。
▲中世の城主遠山氏の氏神で始祖「加藤景廉」を祀る。明治5年(1872年)に山麓(現在の岩村町上町(かんまち))の上へ移転、ここに加藤景廉公が祀られています。
毎年8月の第一土曜と日曜日に秋まつりがあり、息子の遠山景朝が岩村の下にある武並神社から八幡神社に行って親子対面して一泊して武並神社に帰ってくるという行事です。八幡神社の入り口に鳥居が建ち、中段には別当寺である薬師寺、最奥部に拝殿と本殿、八幡櫓があった。棟礼から永正5年(1508年)関ヶ原の戦いより92年前には神社があったことが分かっています。
▲八幡神社の上段部分です。
▲これが現在の八幡神社(加藤景廉を祀る) と 武並神社(遠山景朝を祀る)
菱櫓と俄坂
▲山の地形に合わせて石垣を積んだので菱形になった。山城特有のもので、この上にあった建物も菱形であったので菱櫓と呼ばれた。菱櫓は全国城郭にも、その例は、余りなく中世期の山城を近世城郭に改築した城郭の貴重な歴史的遺構である。
菱櫓の前に俄坂門(櫓門)があり、番所、多門があって大円寺、水晶山方面を遠望監視した。中世の頃は、ここが大手門(正門)で大円寺城下町説もあり、大円寺へ通うずる険しい急坂も残っている。
実際は裏手の門で、普段は使わないが落城等の非常口として用いられた。俄坂もその意味があって、俄坂の途中に中世城の遺構である東曲輪があるが、天然の峻険を利用して敵の来襲に備えていた。
⓬六段壁
▲本丸の北東面に雛壇状に築かれた六段の見事な石垣です。元は絵図のように最上部のみの高石垣であったが、崩落を防ぐために補強の石垣を積むことを繰り返した結果、現在の姿になった【ここに再現CGビューアがあります。岩村城を復元したCG映像がみれます。】
▲見事な六段壁
⓭長局埋門
▲両側の石垣の上に多聞櫓を載せ、石垣の間に門を設けた櫓門。門の内側の細長い曲輪は長局と呼ばれている。登って左手の本丸に入る内枡形状の通路は東口門で、本丸の正門です。前面の一段低い曲輪は東曲輪で本丸の外枡形的機能を持っています。
▲長局埋門を登れば、すぐ本丸です。
⓮埋門
▲両側と奥の石垣の上にすっぽりと被(かぶ)さるように櫓が載せられ、石垣に間のクランクした通路には納戸櫓(二重櫓)が構えられていた。また左側の石垣は江戸初期の築城当初のものであると考えられます【ここに再現CGビューアがあります。岩村城を復元したCG映像がみれます。】
⓯本丸
▲本丸には納戸櫓など二重櫓2棟、多聞櫓2棟が石垣上に構えられていた。東と西には一段低い位置に長局と呼ばれる細長い曲輪が付属する。正門は東曲輪側の東口門である。内部には施設はなく、広場となっていた。【ここに再現CGビューアがあります。岩村城を復元したCG映像がみれます。】
▲上記の写真は本丸があった場所です。
⓰出丸
▲本丸の南西の防御を担う重要な曲輪で、2棟の二重櫓、3棟の多聞櫓で厳重に固められていた。二重櫓の一つは時を告げる太鼓が置かれた太鼓櫓、また多聞櫓の一つは大工小屋として使われるなど、平時には白の維持管理を担う曲輪です。
▲出丸から本丸を見上げる。
⓱南曲輪
▲本丸の南の屋根に伸びる戦国時代の以降で、2本の堀切や竪堀、土橋などの遺構を観察することができる。江戸時代には一部が侍屋敷として用いられたほかは戦国期のまま維持されていたとみられ、なお、南曲輪は仮称である。出丸からすぐ側に位置する。
▲今は木立が立っているが、ここに曲輪があった。
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