岩村城の案内をすると、岩村城の規模は一の門内の本城のみをいうと周囲1,2 55m、本丸は東西31m、南北66m。
二の丸は東西58m、南北63mあり、他に出丸、東曲輪、帯曲輪、八幡曲輪などがあり櫓の数は11で、三重櫓は1、二重櫓が9、一重櫓1で、門は17ありました。
土塀は43ヶ所で長さは1,564mに達する。
▲本丸付近の平面図
ここに全体図を入れますが、このページの説明は二の丸と本丸です、登城口から土岐門は、こちらをクリックしてください。
また、土岐門より上畳橋から八幡曲輪は、こちらをクリックしてください。
狭間の数は680。
石垣は31ヶ所、番子屋は7ヶ所、城内屋敷が10かヶ所のほか、岩村城創築者・加藤景廉を祀る八幡神社、薬師寺、弁財天社も城中にあった。
また、氷餅蔵もあった。
城内に17の井戸があり、水が豊富で2度篭城戦にも水不足は起きなかった。
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40,000個といわれる石垣の石は、大部分が阿木川の上流から山・坂を越えて14Kmも離れている所から運ばれてきた。
当時の農民の汗と血と涙を想像しながら本丸まで上ってほしいです。
▲本丸を支えている石垣
東曲輪・廊下門・二重櫓
東曲輪は本丸の東に連なる一廊で、本丸防備の要衛である。
廊下門はその正面で橋櫓と同じく通用門の樓上が橋のなっていて二重櫓へ通じている。
二重櫓は東曲輪の東北隅に聳える望樓で、水晶山方面の監視にあたった。
▲六段壁(階段を上がっていくと長局埋門が現れる)
長局埋門
東曲輪より本丸に通じる門です。
長局とは、本丸と東曲輪との間に挟まれた狭い区域で、むしろ東曲輪の一部とみるべきと思われる。
▲長局埋門(東曲輪より本丸へ通じる門)
埋門とは石垣と石垣の間に埋め込まれた狭い門のことで、本丸防備のために設けられたもので、この辺り城堅固を極めているところです。
▲長局埋門跡
長局平重門・本丸東多門
この平重門は本丸の正門で本丸からの入口で、最後の防禦線であります。
▲長局平重門
水晶山に向かい風光絶佳の所、東多門は本丸に二つある多門の一つです。
本丸
本丸は標高717mの山頂に位置し、日本の山城では最も高所にある三大山城の岩村城。
▲本丸納戸櫓
表門・裏門とも埋門で厳重な備えをしている。
山城で天守は必要なく、二重の本丸櫓と納戸櫓、それに東西両側に多門櫓があった。
▲本丸看板
奥の一段高い所にあった本丸櫓は、藩主邸が完備するまでは藩主が居住していた。
▲本丸跡(海抜717m360°見渡せる眺望、御嶽山も見えます)
限られた地形に英知の結集した結果とい植えよう。
二の丸から出丸へ通ずる所に赤時門がある。別に不開門といい殆ど開けない門であると云う、門の傍らに朱印蔵がある。
桜井門は山癸谷へ下る非常口で通用口ではない。
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本丸納戸櫓・櫓門
納戸櫓は本丸西南隅の石垣上に聳ゆる二重櫓です。
本丸には二つの櫓があって、一つは東隅にあり天守閣とすべきものであるが、複雑な地形は一をもって四方を望見することができないので所謂※1天守閣にはならない。
※1.所謂(いわゆる)とは、いわゆるです。
▲本丸納戸櫓門
本丸柵門(北側入口)
本丸の北側にある勝手口で柵扉の簡単な門でです。
東には長局の埋門西には二の丸よりの埋門があって、これは内部の通用門であったから、こうした簡単な物を置いていたと思われる。
▲本丸柵門(岩村城の祖・加藤景廉の手植えの松)
門の傍らに加藤景廉の手植えの松と伝わる「松」があったが安政年間の風のために吹き折られたという。
出丸太鼓櫓・二重櫓・多門
出丸の西南端山癸谷に面して、二つの櫓と二つの多門があります。
西隅のを太鼓櫓といい非常を城中に知らせるために建てられ南方に突出しているので城下町の望見の役目にしていた。
▲出丸太鼓櫓
出丸平重門
出丸は本丸の西南に位置しtをり、現在は駐車場・WCになっているいます。
ここは徳川中期の構築で一廊です。
本丸の西南面防備のため特にできたとされています。
▲出丸平重門
平重門は出丸の正門、その傍らに武者穩多門があり、非常の場合多数の武士を待機させた所である。
平重門前に帯曲輪の仕切門とその番所がある。