美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

岩村城主 未分類

歴代岩村城・城主をひとまとめ廃藩置県まで時代順にみていこう

投稿日:2020年8月16日 更新日:

美濃国と言っても、とても広い地域です。

岩村城は美濃でも東美濃で、少し東へ行けば長野県、少し西南へ行けば愛知県です。

 


                  ▲位置関係:美濃国の地図で岩村城は東へ行けば信濃国、西南に行けば尾張国です。

 

長野県(信濃国)の武将といえば武田信玄、愛知県(尾張国)の武将と

いえば織田信長の領域です。

 

同盟関係にあった武田信玄(このとき遠山景命の後ろ盾になってた信玄)

織田信長好機到来とばかり(年下の叔母おつやの方を遠山氏に輿入れさせる)この辺から関係がこじれていったと思われます。

 

 

ちょうど狭間(はざま)にあった岩村城は、信長信玄の陣取り合戦にまきこまれた遠山氏最後の城主となった、遠山景任と正室おつやの方が有名じゃないでしょうか。

 

しかし岩村城には他にも沢山の城主がいました。

そうした歴史を伝えるべく、歴代の岩村城主を初代より全員紹介していきたいと思います。

 

 

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岩村城はいったい誰が築城したか?

源頼朝の重臣だった、加藤景廉が文治元年(1185年)武芸を上げて、源頼朝に遠山荘の地頭を与えられ、ここに岩村城を開祖しました。

※上記の岩村城を開祖をクリックしてもらうと、加藤景廉が活躍した記事が掲載されています。興味ある方はご覧ください。

 

 

景廉頼朝についていたため嫡男、当時は加藤景朝築城をまかせました。

のちに遠山景朝と名前をかえて岩村に築城したのが始まりです

 

現・岩村町八幡神社の祭神として祀ってあり、承久三年八月没。
毎年10月の第1土曜と日曜に景廉と嫡男景朝※1が、父・景廉の祀ってある八幡神社に武並神社から逢いにいって一晩泊まって会話を交わしてくる行事です。

 

 
▲開祖した加藤景廉が祀られている八幡神社                     ▲築城した遠山景朝が祀られている武並神社

 

 

遠山氏の時代が約400年続く

● 遠山景朝:初代景廉の嫡男、承久の乱で公家の藤原信能を鎌倉幕府の意向で相原(地名です)(現・巌邑神社)で斬殺する。(建長の頃没) 

※1:遠山景朝とは、景廉の長子で、後に遠山景朝と名のる。岩村城を築城。現・岩村武並神社の祭神として祀ってあります。

※上記の承久の乱をクリックしていただくと、一条藤原信能のことが書いてあります、興味のある方は読んでください。

                    ▲ここに一条宰相中将藤原信能卿が祀ってある巌邑神社です。

 

(景朝から〜この間約200年間の系図不明)
僕が思うに大圓寺を秋山虎繁が、寺を焼失させたためじゃないかと推察します。

 

⚫️遠山頼景:天文四年殁

⚫️遠山景友:大永四年殁

⚫️遠山景前:天文の頃、弘治二年殁

 

⚫️遠山景任:永禄の頃、元亀三年殁。

織田信長の年下の叔母(おつやの方)を正室として結婚する。

おつやの方女城主として恵那郡上村合戦に武田軍と闘うも敗れる。

これで遠山氏が約400年続いた時代は幕を閉じた。
これより城主がめまぐるしく替わっていく。

 

 

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戦国時代の城主たち

先ずは、
⚫️御坊丸:信長の五男、遠山景任の養嗣子。

元亀3年8歳にて相続した後、天正元年武田軍の秋山虎繁によって甲府に人質としておくられた。

 

 

のちに天正9年(1581年)11月、武田勝頼は信長の元へ送り返す。
同年11月24日、御坊丸は安土の父・信長のもとへ挨拶に出向き再会を果たす。

 

そのとき信長は小袖や刀・鷹や馬など多くをのものを御坊丸に贈り、犬山城の城主にすることを伝え、側近に対しても相応の品を与えています。

 

 

御坊丸は武田家で元服してため(勝頼の勝と信長の長)勝長と名乗っていたが、織田家に戻ってきたため織田(津田)源三郎信房と名乗った。

 

 

天正10年(1582年)6月2日(1582年6月21日)の早朝、京都本能寺に滞在中の織田信長を家臣明智光秀の謀反にて兄・信忠と共に戦死した。

 

 

⚫️秋山虎繁:この時武田軍は岩村城を攻めて、天正元年岩村城主になるが、天正三年織田信忠の攻撃で、信長・家康と共に長篠の戦いで勝利したため、武田軍は岩村城に援軍を送られず織田軍が勝利する。

 

 

よっておつやの方(先の遠山景任の妻)と共に秋山虎繁ほ長良川にて磔刑となった。

 

 

信長のために三度も政略結婚させられ、挙げ句の果て女城主として武田軍と戦い、家臣・御坊丸の命を救って、秋山虎繁と結婚して窮地を救った悲運の信長の叔母・おつやの方お市の方も同様な運命に見える。

 

 

⚫️ 川尻慎吉:信長の臣で、天正三年城主となる。天正十年甲府に転封するまで、城下町富田から今の城下町に移し、天正疎水を造った人物

※天正疎水を造ったをクリックすると前の城下町から、現在の城下町に移転したことが書いてあります。興味ある方はみてください。

 

 

⚫️森 蘭丸:信長の臣で川尻慎吉の後の城主となったが、同年六月に本能寺にて明知光秀の謀反によって戦死十三歳。

 

 

⚫️ 森 長一:蘭丸の兄、金山城にいて各務兵庫を城代としていた、天正十二年長久手の戦いにて戦死。

 

 

⚫️森 忠政:蘭丸の弟、金山城にいて、各務兵庫を城代としていた、のち、慶長四年川中島に転封した。

 

 

⚫️田丸直昌:慶長四年、秀吉の命により城主になったが、翌年慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いに西軍に味方したため、城を追われた。

興味のある方は、上記の田丸直昌をクリックすると詳しいことが書いてあります。

 

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徳川幕府になってからの城主

関ヶ原の戦いが終わって。

まず、大給松平家とは、松平親忠の次男・乗元を祖とする松平氏の庶流。

十八松平の一つ。

三河国加茂郡(現・豊田市)を領したことから大給松平家と称する。

※大給松平健をクリックすると、大給城のことが記載されています。興味のある方はご覧になってください。

 

 

松平宗家(徳川氏)に仕ていた。

初代岩村城主松平家乗は、天正15年(1582年)、主君徳川家康から偏諱※1(へんき)を授かって家乗と名乗った。また、その二文(家康)字の一方の字を貰って松平家乗と名乗った。

※1:偏諱とは、貴人などの二文字の中の一方の字を忌み避けること。

⚫️松平家乗:慶長六年城主になる。慶長十九年殁。家乗の入封により、いまも城下町にある浅見家と盛巌寺が共についてきた。

 

⚫️松平乗寿:慶長十九年家督、寛永十五年浜松城に転封。石室千体仏祥雲寺を建立、出世城こと浜松城に転封し老中になる。

※上記の石室千体仏と祥雲寺をクリックして貰うと記事が載っています。興味のある方はご覧になってください。

 

これより丹羽氏が岩村城主で岩崎城から入封

この時に連れてきた商家は木村家。

 

 
                               ▲木村家の内部と殿様が出入りする専用の木村邸の横口

※下記の丹羽氏信をクリックして貰うと丹羽氏のことが書いてあります。興味ある方は読んでください。

 

⚫️丹羽氏信:寛永十五年城主、正保三年殁

⚫️丹羽氏定:正保三年相続、明歴三年殁

⚫️丹羽氏純:明歴三年相続、延宝二年殁

⚫️丹羽氏明:延宝二年相続、貞享三年殁

⚫️丹羽氏音:貞享三年相続、元禄十五年越後に転封

 

 

これより、先の第二代城主松平乗寿の孫が城主となる。

⚫️松平乗紀:元禄十五年小諸より岩村藩に入封、2万石。

⚫️松平乗賢:亨保二年相続、三万石大名に昇格、幕府老中になる。

⚫️松平乗薀:延享三年相続、子に林述斎。弟子に佐藤一斎、子に鳥居耀蔵。

⚫️松平乗保:天明元年相続。

⚫️松平乗美:文政九年相続。

⚫️松平乗喬:天保十三年相続。

⚫️松平乗命:安政二年相続、正室に尾張名古屋城の釣姫様をめとる。明治二年岩村藩知事、のち子爵。

 

松平乗命と釣姫様のことは、詳しく別記事に書いてありますので、興味ある方は、読んでください。

岩村城主・松平乗命のもとに第11代将軍・徳川家斉の孫娘釣姫を正室に迎える」

投稿日:2018年1月1日 更新日:

 

以上が岩村城の城主です。

 

 

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